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第九章 交通

第一節 道路

領臺前に於ける道路は、往昔乾隆年代の住民が各々部落を構へてより、部落間の道路として自然に開きたる屈曲せる細逕に過ぎず、開鑿の力を効したるは左の通路に止るものの如し。

大嵙嵌より橋子頭を經て三角湧に至る路線は乾隆十八年(寶曆三年)蕭朝定等佣丁を聚めて缺仔庄˙橋仔頭間を開鑿し、繼ぎて乾隆二十四年(寶曆九年)陳金定、廖張江等が三角湧まで開きたり。幅三尺、延長二十一清里とす。橋仔頭より鶯歌石、樹林を經て枋橋に至る路線は乾隆十七年(寶曆二年)張敦仁なる者先づ橋仔頭˙鶯歌石間を開鑿せり。幅三尺、延長十五清里なり。後乾隆二十年(寶曆五年)墾首張必榮、吳濟盛、馬紹文等佣人を召集し、別に南靖厝より柑園、樹林を經て枋橋まで開きたり。幅三尺或は一丈五尺、延長十八清里餘にして當時牛車を用ひて大租を潭底公館に運輸せり。其の後官より常に修復を為せしと云ふ。

三角湧より柑園に至る十清里は乾隆二十一年(寶曆六年)陳金定、李朝盛、董張三名の主唱に依りて開鑿せしものなりと云ふ。

要するに清政府は道路の事は之を政務の外に置きしものの如く、曾つて開鑿修復等をなさざりしが故に、交通運輸の必要に基きて住民自ら之に當れり。されば、路面は概して自然の地形に習ひ、起伏多く且つ狹隘にして蜒々曲折漸く通ずるに過ぎざりき。
領臺後庶政其の緒に就き、必要に應じて政府當局自ら計劃をなし、人民に勞力寄附をなさしめ、屢々舊路を改修擴張せり。
明治三十六年總督府は道路築造標準を定め、一˙二˙三等の三種に區別して、開鑿すべき路線を規定す。爾來、道路の發達頓に顯著なるものあり。庄内現在の重要道路を掲ぐれば左の如し。

(一)州指定道路

◯大溪˙鶯歌間道

大溪、中庄、橋子頭、二甲九、尖山地方の住民が臺北に出づるには木道を通過す。他州との交通要路なり。日用雜貨、産米の搬出入の必要缺くべからざるものとす。附近利用戸數一二三七戸、人口七三四九人、通過人員一年十二萬を越え、其の他交通量亦大なり。本道中鶯歌˙中庄間改修工事は明治三十九年二月に着手し、同月竣功せり。延長五粁二分、幅五米にして、當時鶯歌區の勞力寄附に依り、延人員約五千人を算せり。現在輕鐵 に自動車の使あり。

◯鶯歌˙桃園間道

大湖、大湳地方民の日用雜貨、産米等の搬出入に利用せられ、又鶯歌より桃園を經て縱貫道路に接續し、他州との交通要路なり。大正二年舊道を改修竣功し、延長五粁七分、幅員五米、利用戸數一〇〇七戸、人口五九一三人を有し、交通量大なり。 

◯鶯歌˙三峽間道

元鶯歌石、三角湧間道と稱し、明治三十八年二月舊道の改修工事に着手、同年三月竣成せる三等路線なり。鶯歌˙三峽間の交通要路にして通過人員年二十一萬人を越へ、鶯歌經由三峽に至る物資の搬出入に利用せられ、庄内利用戸數九二五戸、人口五四四九人を有するも、河川氾濫して道路橋梁の壞損すること屢々なり。海山輕鐵會社輕鐵線路の敷設さるるに及びて交通上益々便利を加へたり。

◯樹林˙新莊間道

樹林地方の日用商品搬入及び土産物資搬出の為の唯一の重要陸路なり。昔日(明治三十二年鐵道線路變更前)鐵道線路が臺北より新莊、陂角、龜崙嶺、桃園方面通過の當時、新莊は物資集散の要衝を成し、樹林地方の必需品は殆ど其の地に仰ぎたり。從つて、本道開拓の歷史は古く昔に溯りて之を詳かに知るを得ざるも、州道に編入して擴張工事を施行したるは昭和三年にして同年八月に竣功したり。現在延長六粁七分、幅員一〇米、利用戸數七三六戸、人口四〇四三人を算し、自動車の通行あり。目下開鑿中の樹林˙鶯歌間道完成の曉には、鶯歌˙新莊間連絡道として全庄民に利用せらるるに至るべし。

◯樹林˙鶯歌間道

本道開鑿前、山子脚˙鶯歌間は約五哩二分隔てて歩道なく、交通上支障 からず、從つて庄治上 に地方産業開發上至大の障壁を成せり。昭和五年當時の庄長陳阿玉氏深く此に鑑みて率先開鑿を提議し、海山郡守P戶山兼斌 に細井英夫両氏の斡旋指導と片山臺北州知事の英斷とによりて本道開鑿の實現を見たり。本道の計劃は恰も地方制度改正十週年に成就したるが故に「制度改正十週年記念道路」の稱あり、當庄の大動脈たる表斡線道路として、北は新莊を經て臺北に、西は板橋˙桃園道、及び鶯歌˙大溪道と鶯歌に於て會し、他州郡に通ずる重要路線なり。

本道の工事は三期に分ち、第一期工事は山子脚˙鶯歌間の內鶯歌˙牛灶坑間を地方民負擔區として昭和六年三月二十六日に着手し、此の土工工事費一萬四千四百圓は夫役賦課換算金に依れり。第二期工事は牛灶坑˙山子脚間にして州直營區とし、庄より人夫を供給し、昭和六年六月に工事着手、土工工事費二萬六千五百七十二圓にて竣成せり。第三期工事は樹林˙山子脚間にして庄より人夫を供給し、昭和八年三月に土工工事に着手し、州費一萬二千六百七十六圓二十五錢、地方民勞力負擔換算額四千十三圓八十六錢を要し、此の外全線に亘る暗渠、橋梁等の工作費は州費にて支出せられたるを以て、本道に要したる總工事費は概算十三萬の巨額に上り、去る昭和八年十月中に完成を告げたり。此の道路總延長八粁五分にして幅員は山子脚˙鶯歌間五米、樹林˙山子脚間は十米なり。

(二)庄道路

◯樹林˙圳岸脚道

圳岸脚及び潭底の大部、三角埔の一部住民は樹林に物資の供給を仰ぎ、産物の搬出に亦本道を利用す。明治四十四年後村圳改修と同時にに開鑿し、延長二粁七分、幅二米、利用戸數三二〇戸、人口一九二〇なり。

◯樹林三角埔道

潭底、三角埔、猐子寮等を聯絡し、縱貫道路に接續す。道光四年(文政七年)張必榮なる者首唱して開鑿し、後屢々保甲民によりて改修せられ、他州との交通要路を成せり。有名なる榕樹橋は陳光炎の架設せるものにして潭底庄にあり。本道は延長四粁四分、幅員二米にして、利用戸數一一九九戸、人口七〇二三人なり。

◯樹林˙陂內坑道

陂內坑より樹林方面に物資を搬出するに利用せらるる唯一の道路にして延長三粁五分、幅二米、利用戸數一二五戸、其の人口六八五人なり。

◯樹林˙彭厝道

元鶯歌˙樹林道の一部に屬したるも、鐵道開通以後鶯歌との交通連絡斷たるるに至り、現在庄內裏道路とし重要なる幹線なり。道光二年張必榮なる者佃 戸を招集し、樹林を距る二町の地點に在りし太平橋の修築を為せる初めとし、後屢々補修を加へて今日に及べり。隣庄土城庄に通じ、尚石頭溪及び桃子脚經由三峽庄と聯絡す。延長二粁八分、幅員二米利用戸數六七六戸、人口三五七三なり。

◯山子脚˙柑園道

本庄裏幹線道路たる南靖厝˙石頭溪間道の中央點より山子脚を經て表幹線道路たる樹林˙鶯歌間道に接續し、柑園地方の物資の搬出入に缺くべからざる路線なり。大正十二年皇太子殿下本島行啟記念事業として開鑿せられたるものにして同年十二月に工事着手、大正十三年三月竣功せり。延長二七町、幅二間、總工事費二〇四九圓にして、内庄費一〇〇圓、保甲費九八圓、出役三〇八五人、一人に付六〇錢の換算額一八五一圓なり。利用戸數三七九戸、人口二七六三人を數ふ。

◯南靖厝˙石頭溪道

乾隆二十年(寶曆五年)鶯歌石˙枋橋道の一部として張必榮、吳濟盛、馬紹文等首唱の下に開鑿せられたる路線なり。現在本庄裏幹線道路として柑圓地方の中心を貫通し、北東は樹林、西南は鶯歌、大溪、桃園、南は三峽、西北は山子脚に通ず。柑圓地方の物資の搬出入に缺くべからざる重要路線なり。

◯桃子˙三峽道

南靖厝˙石頭溪間道の一分岐線にして、柑園派出所管内より三峽へ通ずる對外交通要路なり。乾隆二十一年(寶曆六年)陳金定、李朝盛、董張等主唱の下に開鑿し、後屢々改修ありたり。

◯橋子頭˙二甲九

二甲九地方の物資の搬出入に必要なる路線にして、終點には三峽と聯絡する渡船あり。延長三˙九粁、幅員五米なり。

◯鶯歌˙大湖道

本道中大湖˙崁脚間は大正十二年皇太子殿下行啟記念事業として舊路線に大改修を加へ、大正十三年に竣成し、延長三˙三粁、幅員三米、總工事費一二五〇圓にして、内庄費五〇圓、保甲費六〇〇圓、保甲民出役六〇〇圓(一人付六〇錢換算)なり。後屢々改修は行ひ、昭和七年橋梁の架設せらるるに及びて交通愈々便となれり。

◯大湖˙桃園道

大湖地方の住民が桃園、南部方面に出づるには本道を通過し、又同地方の日用品及び産物の搬出入に利用せらる。現在幅員一米に過ぎざるを以て將來擴張改修を要するものなり。延長二粁、利用戸數三二〇戸、人口一九二〇人を有す。

◯大湖˙龜山道

大湖連山を斷し、龜山を貫通せる臺灣縱貫道路に接續する對外交通要路なり。現在幅員僅に一米にして蜒々迂曲す。將來擴張改修を要するものなり。

第二節 鐵路

明治三十二年鐵路線路の變更に着手し、同四十二年に竣工せり。臺北より艋舺を通過し、新店溪を渡りて板橋に達し、第一˙第二大嵙嵌溪を斷し、樹林、山子脚を經、茶山にて二十三 の隧道を鑿ち、更に大嵙嵌溪に沿ふこと一里半にして鶯歌に至る。之より西に轉じて大湖を過ぎ、桃園停車場に於て舊線に接續せしめたるものなり。本庄内に停車場三ヶ所あり、樹林、山子脚、鶯歌即ち是れなり。

鶯歌˙桃園間なる大湖附近に於て最大勾配は六十分之一にして、最小カーブなるが故に事故頻發し、大正八年六月十日午後七時下り列車が同地點にて重量の為に連結機を切斷され鶯歌驛構内へ逆行衝突し、乗客即死十三名、負傷六十餘名を出せる縱貫鐵路開通以来未曾有の大樁事ありしを契機に漸く線路改良の機運熟するに至れり。越えて第四十四帝國會議に提出したる右線路改良工事費の豫算案も無事に通過したるを以て、急勾配六十分之一を百分之一に緩和改良し、大正十一年五月之が竣工を見たり。更に大正十四年五月茶山隧道附近の改良工事に着手し、同十五年一月竣工せり。

昭和四年五月より同年十一月までに鶯歌˙桃園間複線工事を完成し、次いで昭和五年には山子脚˙鶯歌間、翌六年には樹林˙山子脚間の竣工を見たり。

鐵道運輸狀況を表示すれば左の如し。(昭和七年三月調)

第三節 自動車

鶯歌˙大溪間乘合自動車は大正十三年十月三十日營業許可を得て大鶯自動車株式會社之を經營し、昭和三年六月十八日桃園軌道株式會社に讓渡して現在に至る。營業區間八哩七分、車輛は乗用三臺、貨物一臺を有す。最近一年の乘降延人員四萬八千三百三十七人なり。

第四節 輕便臺車

一、開業年月日 大正十年九月。

二、臺 車 數 七十七臺。

三、營 業 者 海山輕鐵株式會社、代表者顏國年。

四、貨   客 昭和七年中の貨客左表の如し。

第五節 水運

本庄域内を淡水河(元大嵙嵌溪)の本流數條に分流し、昔日は上は大溪(元大嵙嵌)より下は板橋、新莊、臺北、淡水に至る迄舟揖の便開け、移出入物貨の殆ど全量は之に依り、極めて重要なる交通機關たりし為め、其の河岸に津頭(荷役場)を中心とする大嵙嵌街(大溪街)三峽街、板橋街(板橋街)新莊街の開拓を見、夙に殷賑を告げたり。

當時當庄域内の津頭(荷役場)は沛舍陂(現在土城庄管內、元樹林區管內)及び三塊厝の二箇所にして共に當地方の交通要衡たりしも、明治三十二年鐵道線路の變更あり、本庄域内を貫通するに及びて次第に水運の領域を侵し、更に大正八年八月桃園大圳の開鑿完成を告げてより水量著しく減じ、河水の枯渇すること屢々なりしかば、水運は全く杜絕し、操舟業者も殆ど其の影を潜むるに至れり。

因に本庄域内大正六年に於ける帆船三十艘(一艘容量約十五石のもの)なりしが、昭和八年に於ては十五艘に激減し、而も一般貨物の迴漕を為すもの く、専ら砂礫の採集又は渡船等に從事しつつある狀態なり。

第六節 橋梁

第七節 渡船

庄域内は河川多く、橋梁の設備未だ充分ならざる為に河川流域各部落間の交通連絡は渡船に依らざるべからざる現況なり。渡船は一人一回乘船に付何錢かの渡船料を船夫に給與するを通常とするも、公共慈善團體或は篤志家の寄附に依りて經營し、無料にて乘船せしむるもあり、之を義渡と稱す。改隸前は自由業として殆ど附近の土地所有者が操業權を有し、他人の介在を許さざりしも、領臺後警察取締の下に置かれてより口賃も統一さるるに至り、且つ操船業者の自由操業を禁止し、希望者をして請負はしむる制を設け、請負金を廳地方費の収入となせしが、大正九年制度改正に伴ひて庄収入の財源となしたり。蓋は素より渡船業者間に於ける競争の結果なるも、地方民負擔の公平、交通機關の利用均沾及び交通の發達上より百害ありて一益なりしがば、昭和五年より交通改善の計畫に基きて漸次無料に改め、庄營事業として之が所要經費は庄歳計に計上するに至りたり。昭和八年末に於ける重要渡船を掲ぐれば左の如し。

第八節

庄域内は桃園、三峽、板橋の三郵便局區に分割され、頗る動脈不便なるに加へ、桃園局加入電話は皆無、三峽局加入電話三、板橋局加入電話二のみなれば、通信上の圓滑は殆ど期し得べからざる狀態なり。


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