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第十章 産業

本庄域の面積は三方里分、その人口二萬三千餘を有し、住民の數決して少しとせず。元天惠の地いして一切の自然的條件を具備し、各種の産業夙に發達せり。即ち最近三ケ年間に於ける各種産業の生産高を表示すれば左の如し。

第一節 農業

本庄は氣候溫暖にして灌溉の便多く、而も地味肥沃なれば、農業を營むに最も好適の地なり。現在住民の全戸數の五割は農業に從事せるが、昭和七年度の調査に係る耕地の面積及び生産高左表の如し。

(一)農業沿革

本島の農耕に關しては、大租戶、小租戶と稱し、一田園に二主を有する特種の慣例あり、又貸與權利と小作料義務に關しても他邦に見る能はざる習慣を有す。之支那福建地方の舊慣たる「田骨、田皮」の制即ち「田面、田根」「大苗、小苗」或は「地骨、地皮」等より来たれるものの如し。田骨とは土地の所有權にして、田皮とは使用權なり。同一の地に二個の主あり、之を借る者所有權者に納むる租(賃借料)を大租と稱し、使用權者に納むる租を小租と稱す。即ち両權 び獨立し、所有權を賣却するも使用權に關係なく、使用權を移轉するも所有權に關係せざるなり。歐洲人之を「上有權、下有權」と云へり。咸豐三年(嘉永六年)臺灣府は此の名目を除き、其の制を釐革せんと企てしも、永年の習慣を矯正すること能はず、只名を「大租、小租」と變じたるのみにて、其の實は依然として存在せり。

康熙二十年(天和三年)本島清國の版圖に歸するや、極力移民を獎勵し、資力ある者は官の允許を得て開墾權を獲得せるが、其の墾區は頗る廣莫たるものなりき。然るに、當時は兇蕃の出沒繁く、之に對して防備を要するは勿論、一面道路の開鑿、水利の開通を計らざるべからず、之に要する資本及び勞力は到底一個人の克く堪ふべきものにあらざれば、土地を更に分割し、力墾者に之を分配すると共に、兵器及び農具を給與して、蕃害に備へつつ開墾に從事せしめたり。

而して開墾成功後は其の地區の管業權を永遠に付與し、力墾者は之が代償として亦永遠に一定の租額を起業者に納付す。又起業者は政府に對し力墾者の身上に關して其の責に任じたり。此の起業者を業主或は墾主と言ひ、力墾者を佃戶又は墾戸と稱し、業主は其の地區の開拓權を有し、佃戶を自由に更迭し得るなのみらず、之を監督する警察權をも政府より付與せられたり。蓋し當時の佃戶たる者は鄭氏の部下たりし剽悍の徒にして新來の移民も亦無ョ亦貧の徒多く、業主は警察權を必要としたればなり。

既にして開拓の業進み、年を經るに從ひ、業主は廣大なる田園を擁し、數百の佃人を指揮し外に防蕃の設備を為し、内に警察の權を握り宛然小諸侯の如く、其の勢を以て墾地の搗蛯フみに専念し、坐して巨利を貪るに至れり。是より業主は只佃戶に對する權利を有するに止まり土地との事實上の關係漸次薄弱となるに及びて、其の實權は次第に佃戶に歸し、軈て佃戶の占有と何ぞ選ぶ所なきに至れり。斯くて佃戶は次第に其の勢を擴大し、業主との契約に反して自由に土地を處分し、之を新佃人に轉貸して年々租榖を徵收し、其の實權業主を凌駕するに至れり。茲に於て同一の耕地に就きて業主の佃戶より徴収するものと佃戸の現耕佃人より徵收するものと二個の收租權を生じ、業主の收租を大租と稱へ、佃戶の收租を小租と言ひ、大租戶、小租戶、現耕佃人の三階級を現出したり。而して、前述の如く土地の實權小租戶に移りてより大小租權の買賣、出典盛に行はれ、從來發せられたる法律、諭告等は殆ど空文となり、大租權の所有は不明に歸し、徵稅上に困難を感じ、大租戶より徴収するよりも寧ろ小租戶を業主となし之に納税せしむるの正當且つ便利なる狀態と變じたるを以て、光緒十四年(明治二十一年)巡撫劉銘傳は全島の田園を丈量して賦稅を定め、權利の所在を精查確定して小租戶を田畑の業主に公認すると同時に大租戶の正供義務を免除し、大租榖の中十分の四を控除の上小租戶の所得に歸せしめ、之に負はしむるに正供義務を以てしたり。
大租の一種にして蕃大租と稱するは蕃人占有の土地を借りて開墾せしものに對する小作料なり。雍正三年(享保十年)蕃地を開墾する者は相當の補償を拂ふべき旨の諭告を發し、蕃社に屬する土地は其の代表者たる土目と協商し、又一個人に屬する土地は蕃丁と締約し、永遠に一定の租額を拂ふ義務を負擔して其の開拓權を取得せしむる事となれり。是蕃大租の起源にして、普通の大租と其の性質を同じくす。蓋し漢人の蕃地に侵入して蕃人と相踰矩するを防ぎ且つ感情の衝突を緩和せんとせるに出づるものの如し。

乾隆初年(元文年代)蕃人の占有地各所に散在して開拓に不便ありしため、淡水同知王湃の議を用ひ、熟蕃の大社には一社毎に五百甲、中社には四百甲、小社には二百甲を保留して其の口糧に供したり。同五十三年(天明八年)屯丁の制を設け、熟蕃を屯丁に充てしも、支給すべき口糧なく、遇々土牛溝内に在りし未開地を屯丁一名に付一甲、屯丁武官一名に付三甲乃至十甲を給して餉糧に資し、之を養贍埔地と稱したり。然るに蕃人は農耕の經驗淺く、其の術亦拙きに因り、遂に其の得たる土地を漢人に墾耕せしめて租額を徴収することとなりたり。是亦蕃租の起源にして、時日の經過と共に次第に轉貸の風起り、普通の「大租、小租」に習ひて「蕃大租、蕃小租」と云へる二個の收租權の行はるるに至れり。之より蕃小租戸の勢力益々強大を加へ、蕃大租戸を壓倒して其の權利を侵害するものありしかば、政府は屢々諭戒して蕃人の保護に努めたるも、何れも朝令暮改に終り、復び佃戶の為めに蹂躪せられ、光緒十四年(明治二十一年)の清丈以後は土地の權全く小租戶に歸して熟蕃の勢益々薄弱に赴けり。

大租の租率は佃批(業主と佃戶との契約證)に依りて決定せられ、通常、年の豐兇、權利者又は義務者の變更によりて搆ク改正し得ざるを原則とす。之を死租、決定租、鐵租或は額租と稱ふ。又地方に依りては其の年の收積の多少に準じて租額を定むるものあり、之を生租或は活租と呼び、通俗には抽的租又は一九五租と云ひ、毎年收穫高を計算して百石より九十石を拔き、又五石を抽き、即ち百石に付業主十五石、佃戶八十五石を得る割合なり。蓋し、土地給出の始めに當りては埤圳を開き、灌溉を圖る等種々の準備と費用を要し、而も一定の收穫を得る能はざる為に此の法を約したるものにして、田園完成の後は概ね死租に變じ、以て租額算出の繁を避け、且つ佃戶の收穫高隱蔽を防ぎたり。而して大租の率は地味の肥瘠、水利の便否に依りて敢て一定の慣例なしと雖も、普通は其の收穫の十分の一を標準とし、之を上中下の三等に分ち、一甲に付上田八石、中田六石、下田四石、上園六石、中園四石、下園二石にして、訴訟に於ける政府の判定は多く此の標準に據れり。之鄭氏時代の遣制なるべく、大租戶は此の租榖より正供額を除き、其の餘を以て所得とせり。道光二十三年(天保十四年)以前の所得左表の如し。

(備考=本表中の石數は を以てし、之を米に換算する時は 二より米一を得る割合なり。 は通常乙未斗を使用し、其の一斗は内地 の五升九合に相當す。又大租戶の用ひたる は乙未斗より一割乃至一割五分大の なるが故に、大租戶の収納額は前表に一割乃至一割五分を加算すべきものなり。道光二十三年以後は正供を銀納に改め、 一石の時價一圓内外に過ぎざりしに、正供は 一石に付二圓の割を以て徴収するに至り、大租戶の所得は殆ど半減し、下田の如きは寧ろ一圓以上の差損を生ぜり。即ち、左表の如し)

光緒十四年の清丈釐正に依りて大租は其の四成(四割)を減ぜしも、正供義務は同時に小租戶に移轉せしため、大租戸の所得却つて搗蛯オ、且つ米價年を逐うて騰貴せしかば、大租戶は何れも巨利を占むるに至り、蕃大租の如きは普通大租と略同一の所得を有し、而も正供を負擔せざりしが故に、其の収入は普通の大租戶に過ぐるものありき。

大租納入時期は、土地劣等にして租額少きものは早季の収穫(陰曆六月)に全納し、土地優等にして租額多き者は早季六分、晚季(陰曆十一月)に四分の割を以て分納するを常とす。小租戶にして若し怠納或は納入不能の場合は其の小租作を中止し、小租戶を變更する等の事行はれしも、清丈以来大租の權は砂上の樓閣と同じく全く土地の關係を離れて一種の虛權となり、年二割より五割の高額なる利息を附して小租戸の租額滯納を防止せり。

明治三十七年政府は其の租權者に公債證書を交付して之を買収せり。大租權之より消滅し、小租戶は悉く業主たる位置に就きたり。

小租も亦榖を以て収納せり。但し園にありては銀納を例とす。小租は田園の地位、肥瘠、水利の便否、其の他社會の事情等に依りて、佃人間に於て協定せらるるものなれば、大租の如く土地の等則に從ふ定例あることなく、現在田は甲當二十石より五十石の間にあり、三十年の前に比し約三倍、六十年前に比し約六倍、百年前に比し約九倍の揄チを来したり。

小租には、其の田園と共に附屬佃簝(業主が其の田園を耕作せしむる為に築造して佃人に住居せしむる家屋)を併せ借受くるを常とするが故に、佃簝の家賃、敷地代等も包含せられ、大租と全く其の性質を異にせり。

田園貸借上に磧地銀(又は磧地銀と云ひ、一種の保證金にして内地に於ける敷金と同義なり)と稱するものを佃人より業主に渡し、業主に於て小作期間内無利息にて預るを本則とし、若し佃人租榖を怠納したる時は其の中より控除し、又期限滿了して田園一切を返還せし時は之を佃人に返却するものとす。此の慣習は、最初佃人の多くは無ョ浮浪の民にしてコ義に乏しく、且つ公力によりて業主の權利を保護する能はざりし為に養成せられたるものにして、現在小租一石に付二圓乃至四圓の高率を示せり。園の小作には田簝を附屬せしむことなきが故に、磧地金亦廉にして甲當三十圓乃至六十圓の間にあり。租榖前納の約あるものは之を現銷と稱して磧地金を徵せざるを例とす。磧地銀は亦租額に影響し、磧地銀多ければ其の利を算上して租榖を相當に減じ、磧地銀少なければ租額を相當に多くせり。磧地銀授受の時期は、小作を始むるべき前年陰曆八月十五日に先づ定頭金(元定頭銀)即ち手附金として金額の十分の一を納め、次で其の年の晚季稻收穫の時十分の四、其の年十一月の租額と共に十分の四、最後に田簝に移住する時(通常冬至前十日)に殘額を完納するものとす。

小租地の賣買相場は小租額に依りて此れを定むるものなり。茲に一甲の田あり、租榖三十石を得るとせば、其の三十石を代價に換算し、時價一石に付六圓の時は百八十圓となり、此の百八十圓の利子を得るには千八百圓の元金を要するが故に、其の田の相場を千八百圓と定むるが如し(通常利迴は一割内外)。即ち、租額の多少、 價の變動及び水利の便否等に因りて小租地賣買價格を異にするものなり。然も、通常田園の收益は金利の収益に及ばざるものあるに拘らず、人民の此れを貴重とする所以は、古來匪徒の騷擾常に絶えず、貨幣の強奪され易きが為に、田園其の他の土地を以て最上の財産となし、競つて之を得むことを勉めしより、其の高價を誘致したるものの如し。

(二)米作

米作は一年二回の收穫にして、其の豐凶に依りて一樣ならざれど、常に本庄産物中の首位を占めたり。今過去十ヶ年間に於ける米産額を見るに左表の如し。

本島の米作は、往古より既に現住蕃人の之を營み来たりし事實は、諸種の史蹟に徵して明瞭なり。支那宋朝の末葉より漢人お来住する者漸く繁く、米榖の生産亦次第に發達したるが、和蘭人南部に、西班牙人北部に據るや、之亦大に拓殖の道を講じたりと言ふ。鄭氏時代より更に清朝の版圖に入りて以来、年々歳々移民の増加を見、農作に從事するもの益々多く、埤を開き、圳を鑿ちて米田の開拓せらるるもの殆ど南北平野に遍きに至れりと雖も、當時之が統制を缺き、諸般の改良亦到らざりしため、米の種類甚だ多く、粳米にして第一期、第二期を通じて播種するものは烏 花螺、白 花螺、烏粘、赤骨、清佃、花肚、紅脚早、三杯、大有種、含胎格、米粉種、高脚格、低脚格、霜降早、下縣種、青脚種、萬三杯、岸仔種、火燒格、鳥踏種、赤 種、白 種等にして、其の芒あるものは紅米、田紅、金猴、冬赤、紅谷等なり。現在之等を總稱して在來種と言ふ。糯米にして両期を通じて播種するものには金嬌、竹絲、老鼠牙、芒花求、白朮等あり。第二期作にのみ播種するものは金包銀、白 朮、鵝蛋朮等なり。鵝蛋朮及び白朮を丸糯と稱し、其の他の粒長きものを尖糯と稱す。粳にして領臺後内地より原種 を採り、改良して播種せるものには中村種、晚二號、相川種、臺中六十五號、臺北一號等あり、之を總稱して蓬萊米と名付く。

今本庄の調査に係る本庄域内昭和六年度の品種別作付面積を示せば左の如し。

(三)茶

臺灣の茶業は千八百六十五年即ち安政二年頃英人ジョン˙ドンド氏に依つて海外市場に紹介され、後對岸安溪より苗木を移入し、一方農家に資本を貸與して栽培を獎勵したるを以て逐次生産量搗蛯オ、遂に海外へ輸出せらるるに至れり。即ち支那廈門より米國紐育に送られて大に其の名聲を博したるを契機とし、之より漸次市場に認められ、價格も亦漸く昇騰して遂に本島重要産業の一となれり。

本庄域内に於ける栽培の起源は詳ならざるも、其の漸く盛んとなりたるは同治初年(文久、元治時代)なりと言ふ。俗に「同治產天多沒歹百姓種茶聯編栽」とて、廣く謳歌さるるも亦故なきにあらず。

當庄内の山地千餘甲ありて土壤は有機質に富み、赤黄の土色は鐵氣を含蓄し、茶作にとりて天恵の好適地なることを示す。茶樹の種類は青心烏龍、青心大有、大葉烏龍、黃柑、硬枝、紅心、白毛猴、時茶等あり、就中青心烏龍及び青心大有は最良種と認められ、近来極力之が栽培を獎勵し、積極的に茶園の更新整理に努めつつあり。收穫は春夏秋冬に亘ると雖も、産額の割合は春茶四十五、夏茶二十七、秋茶十八、冬茶十の割合なり。最近三ヶ年間の産茶狀況を掲ぐれば左表の如し。

(四)甘藷

甘藷は本島人之を地瓜と稱し、通俗に蕃著と言ふ。本島傳來の何れの時代なるかは之を詳にする能はざるも、蕃薯と名付けらるる事實に依り、或は和蘭人又は西班牙人等の手に依りしか、或は往古より現住蕃人が他處より移植せしか、何れかに歸すものと考察せらる。但しは又本島の天產なりしが、遽に斷定し難し。

甘藷は當庄の重要産物として、全般に之が栽培普及し、殆ど地を選ばず、又栽植に季節なく、年二回の収穫あり。又住民の多くは米に混じて之を食し、或は磨りて澱粉を造り、或は酒精釀造原料となす。尚屑藷及び藷蔓は家畜の飼料に用ひらる。本庄城内昭和七年に於ける作付面積は三七三甲、収穫高は五三二五四〇〇斤、價格五三二五四圓なり。

(五)落花生

落花生は本島人之を土豆と稱し、日常副食物として用ひ、又油を取り、菓子を造る等、其の需要甚だ廣し。
本庄域内の河川沿岸に多く産し、昭和七年に於ける作付面積五五甲、収穫高八〇七五〇〇斤、價格四八五八圓なり。

(六)其の他

本庄域内に於ける農産物として前記以外の主なるもの二三を舉ぐれば左表の如し。(昭和七年末現在及び同年中)

第二節 工業

本庄域内の工業として最も重要なるものは鶯歌の窯業並に潭底の蘭蓆製造業是なり。昭和七年に於ける生産高は陶器五一五〇〇〇個、六一八〇〇圓、磚瓦五九三九〇〇〇個、二〇七一七圓、蘭蓆一一四六〇枚、五五三〇圓なり。

(一)陶器

庄下陶器の生産高は工業品中首位を占め、其の販路亦全島に亘る。本工業創始の起源は詳ならざるも、嘉慶年代(亨和及び文化年代)支那の磁灶より吳姓某當庄大湖字崁脚に来住して工場を建設したるに創まりたるものなりと傳へられ、爾來斯業の有望なるを知り、之が獨占の計劃を以て職工を専ら支那の同鄉同姓に採り、異姓には絕對に製法を傳授せざる因襲あり。又自家の自家の養女、息婦仔には製法を傳授するも、娘には絕對に傳授せざるを風習とせり。即ち娘は他日他家の主婦となるが故に、極端なる排他主義に依りて異姓者同様に之を取扱へるものなるべし。然れども領臺後交通機關完備し、販路亦擴張され、製陶技術の改良を ばれてより、異姓者も技術習得の機會を與へられ、獨占より開放に向ひ、異姓の企業を者見るに至りたりと言ふ。

現在鐵砲窯六、改良窯三あり、製造戸數一六戸、製品の種類は斗硿(飯盛)、雙耳(土釜)、茶 (土瓶)、砂碨(土釜の一種)、平底甕(細口甕の一種)、平底硿(飯盛)、金斗(骨甕)、龍瓘(土瓶の一種)、烏 (香爐)、蘭盆(蘭鉢)、松盆(松鉢)、朝顏盆(朝顏鉢)、火盆(火鉢)其の他數十種の多きに上れり。

(二)磚瓦

磚瓦は道光年代(天保、弘化時代)陳昆と言へる者が大湖字崁脚に於て初めて製造したりと傳へらる。現在同地林萬水所有の窯即ち之なり。製品優良にして一般に愛用せられ、就中尖山瓦は全島に有名なり。磚(煉瓦)には尺四磚、尺二磚、尺磚、大鳥、小鳥、岸只、太興、瓦には小瓦、中瓦、大瓦、福瓦、筒仔、內地瓦等種々あり。

(三)蘭蓆

潭底の蘭蓆は製造戸數約六七十戸にして、何れも副業として製出する程度に過ぎず。

第三節 商業

山脈に沿ふて庄下中央に縱貫鐵路貫通し、停車場三箇所に設置せられ、附近街庄より出入の關門、貨物集配上の要地をなす。即ち、鐵道敷設以来驛の所在地を中心として商取引日に殷賑に向へるが、商品は概して住民日常生活の必需品及び農家所要の肥料、家畜の飼料等なり。尚庄内生産物品を移出する仲買商に從事するものも亦頗る多し。  七年に於ける調査に依れば、商業に從事する者樹林八六戸、山子脚七戸、柑園一四戸、鶯歌一二〇戸、大湖五戸、計二三二戸に上れり。

第四節 礦業

本庄域内の礦業は單に石炭の一あるのみなり。礦區は山地一帯に 在し、炭脈は三種の炭系より成り、褶曲は斷層にして反覆露出し、上層、中層、下層の三層を有す。之が採掘は同治末年(明治六、七年頃)より始めたるものの如くなれど、詳知すること能はず、縱貫鐵道開通後其の採掘頓に盛んとなれるも、當時は概ね上層炭を採掘するに過ぎず、大正六年後各方面の需要益々旺盛を極めたれば、資本家の投資を促し、手掘より機械掘に改められ、中層、下層をも採掘するに至れり。炭質は概ね油炭なり。脆弱にして粉炭過多の感あるも、火力極めて強烈なるを特長とす。今其分析成績を示せば左の如し。(採掘地は山子脚、炭層系は上部、炭層二十尺とす)

其の生産額は昭和五年度三萬三百三噸、十一萬圓、昭和六年度二萬七千二百七十に噸、九萬圓、昭和七年度三萬一千三十噸、十二萬八千七百七十圓なり。

第五節 畜産

畜産業は古くより本島農家の副業として普く經營され、其の主要なるものは豚、水牛、雞、騖等なり。就中豚は日常の副食物として賞用さるるのみならず、一般祭祀の犧牲として缺くべからざるものにして、從來婦女子の副産として飼養し来たりしも、專賣局酒工場の樹林に設置せられて以来、酒糟を利用して養豚を專業となすもの漸次現はるるに至れり。

牛は耕田の用に供するのみならず、貨物の運搬其の他に利用の途又廣し。然るに挽近耕地の面積著しく擴大するに比し、牛は殆ど攝Bせられず、耕牛負擔の過重を告ぐるに至りしは甚だ遺憾なり。本庄に於ては昭和七年畜産組合を創立し、爾來耕牛愛護ディーを設けて之が愛護 に改良の途を講じつつあり。

昭和七年に於ける畜産中其の主なるもの左の如し。

第六節 林産

本庄域内に於ける山林は約千甲歩にして、林産物の主なるものは木材、木炭及び竹材なり。昭和七年の統計に依れば、その産出數量及び價額左表の如し。

第七節 水産

本庄城内には大嵙嵌溪數條に分流し、池沼亦少からず、淡水魚族極めて多く、四季を通じて游釣客の往來絶えず。

昭和七年に於ける捕獲量左の如し。


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