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第二章 住 民

第一節 種 族

本庄内の住民は内地人、本島人、外國人の三種族なり。内地人は領臺以後内地又は島内各地より移住せし者、本島は中古支那より移住せし者の後裔にして其の先住地に依りて閩族と粤族とに分ち、外國人は何れも支那人出稼労働者にして其の數極めて僅少なり

第二節 移 住 の 起 源

支那人の臺灣島あるを知りたるは隋の大業三年(推古帝即位十五年)羽騎尉朱寛の来航に始まり、後明の嘉靖末年(永禄時代)漳泉二府の民初めて貿易の為に来航せり。降りて満洲愛新覚羅氏明軍を破るや、動乱の結果南支那より渡臺する者頗る多く、更に永暦十六年(寛文二年)朱成功明の遺民を率ひて臺灣に據りてより、思明州(今の厦門)の民にして移住する者漸く増加し、斯くて清の康煕二十二年(天和三年)臺灣清の版図に帰し、次第に蕃人を山谷に駆逐して其の地を占領せり。之等移住民の最初居を定めし多く南部臺灣にして、後漸次北部に及べり

本庄区域内に最初移住せるは舊名南靖厝莊付近にして、即ち康煕二十四年(貞享二年)閩の泉州人陳瑜なる者南部臺灣より来住して開墾に着手せり。乾隆二十六年(宝暦十一年)に至るや、移民益々多く、漸次蕃人を駆逐して蕃境を侵蝕し、更に尖山、大湖、潭底、三角埔、石頭溪、彭厝、山子脚の付近を拓きたり

第三節 分 類 械 闘

當庄開墾當時の住民は閩・粤両族なるも、後閩族は更に漳人・泉人に類を分ち、各部落に割據するに至れり。種族血縁の観念強く、険躁慓悍にして事毎に反唇抗争を続け、遂に咸豊三年漳人、泉人互に干戈を交へ、同九年(安政六年)漳泉の一大械闘となり、混乱紛擾數年の久しきに及び、為に家の焼燬、人民の死傷夥しきものありしが、同咸豊十一年(文久元年)官は之に厳飭を加へ、鎮臺亦兵を派して鎮圧す。是より争闘全く熄みて和を為すに至れり

第四節 戸 口

(一) 静 態

(二) 動 態(昭和七年中及び末)

第五節 職 業

住民の大多數は農業に従事し、総戸數の四二・六%を占む。即ち、樹林、山子脚、鶯歌、尖山埔等の街 を成せる部分の住民を除き、爾餘は殆ど純農村の生活をなし、頗る質朴倹素なり。次に商業は六%、工業は二・二%を示して居れり。職業戸戸數を舉ぐれば左の如し。(昭和七年末現在)

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