九 愛國婦人會話 抑々愛國婦人會は愛國至誠の女丈夫、奧村五百子女史が明治三十三年北清事變に際し、我が出動部隊慰問使の一行に加つて北支に渡り皇軍の勞苦を具さに視察しその目覺ましき活動に痛く感激し、歸廟後戰死者遺族及び傷痍軍人救護の急務を絕叫して、明治三十四年二月本會を設立されたのである。 女史は平生婦人報國の大志を抱き、國家の隆昌は婦人の力に俟つところ最も大なる事を深く信じ、之を強調し生涯をそのために捧げられたのである。本會が創立當初より健實なる發展をなし得たことは、女史の献身的努力と當局の指導後援その宜しきを得たことは言ふ迄もないが、一面中外に誇るべき我國婦人の傳統的祖國愛の發露に外ならぬ。畢竟本會は戰の庭に立つことを許されぬ婦人が、結束して銃後の護を固くし、皇國軍人をして後顧の憂なからしめ、以て婦人報國の誠を致さんとする大和撫子の精神的結合である。 本會は創立以來軍人遺族や廢兵の救護に全力を傾注してゐたが、一面時代の推移と變遷とは到底本會の事業が軍事救護にのみ局限せらるゝことを許さず、大正六年定款の改正を行ひ、本部及支部は共に時代の要求に基く社會諸施設を行ひ得る途を開き、尚現在に於ては市區町村(臺灣に於ては市街庄)を單位として、會員相互の修養・研究・娛樂・奉仕等其他婦人に必要であり又婦人に相應しき事柄は之を取りに行ひ、之によつて愈々會員各自の向上を圖ると共に婦人報國の實を舉げることゝなつた。 斯くして本會は將來益々その步みを堅實にし、又時代の變遷を察し思潮の動きを靜觀して、苟くも硬化せず形式化せず、清新の意氣を以て現在我國に於ける最大なる婦人團體として實績を收め、國家竝に同胞の為に最善の努力を捧げんとするものである。 本會は畏くも上 皇室の特別なる恩寵に浴し、皇族を總裁に仰ぎ、各宮妃殿下を名譽會員に戴く光榮を擔つてゐる。 希はくばかかる國家的重大なる使命の遂行を目的とする本會に對し心からなる贊同を與へられ、美しき敷島の大和婦人たるの本分を完ふせられんことを望む次第である。 愛國婦人會々員數(昭和九年六月末日現在) |