八 赤十字社話 西曆一八五四年に起つたクリミヤ戰爭の際、英國のナイチンゲ−ル孃が一隊の看護婦を率ゐて戰地に臨み、傷病兵の看護に當つたことは人のよく知るところである。これが赤十字事業の濫觴である。ついで伊太利統一戰役中戰ソルフエリノ戰(一八五九)に、看護設備の不完全な為、數多の傷病兵は山野に遺棄され實に悲慘の極めであつた。これを目擊した瑞西人ヂユナンは深い同情を寄せ、一八六三年同志とジュネーヴに會合して赤十字事業の規約を作り、翌年列國の協贊を得て萬國赤十字社を設立し、これが本部をジュネーヴに置くことにしたのである。 我國に於ても明治十年、彼の西南の役に澤山の傷病者が出來たので、佐野常氏と言ふ人が、豫てヨーロツパで聞いてゐた赤十字社の趣意を酌んで同志の人々と謀り、總督宮の御許しを得て博愛社を組織し、傷病者の救護に當つたのである。かくて明治十九年十一月十五日には我國も萬國赤十字同盟に加はり、博愛社は日本赤十字社となり、政府の監督の下に活動する事になつたのである。 赤十字社はかうした目的にて設立せられ、專ら戰時の救護に働くことになつてゐたが、明治四十五年、昭憲皇太后は御內帑金拾萬圓を萬國赤十字同盟へ御下賜になり、その收利を以て平素の赤十字事業の活動を、御促し遊ばされたので、歐洲大戰後成立した萬國赤十字聯盟でも、世界人類の幸福を攝iする為に、健康の攝i、疾病の豫防及び苦痛の輕減を目標として大いに活動する事となり、それ以來各國赤十字社は競ふてこの方面の事業に努力して居る。 日本赤十字社は以上述べた樣な歷史を持ち、人類愛の大精神に立腳して、屢次の戰爭に救護員を送り、或は陸海軍病院に病院船、患者輸送船に勤務して傷病者の救護に盡瘁し內外の賞讚を博し、尚震災・火災等、苟くも救護を要する場合には時を移さず博愛の手を伸ばし、其他保護に基く各種社會事業にも積極的に努力してゐることは萬人の認むる處で、この貴い事業を益々發展させることは我々の責務である。この博愛事業は國民總意の反映であるから、國民の援助如何が事業の消長に關係することあ言ふ迄もない。即ち日本赤十字社は全國民の協力と後援とによつて初めて美しい成果を收めることが出來るのである。 赤十字社員數(昭和九年七月末日現在) 板橋街 一一五名 中和庄 九〇名 鶯歌庄 一〇九名 三峽庄 八七名 土城庄 五五名 計 四五六名 |