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一〇 三峽表忠碑

三峽の町はづれ、松・櫻等を植込んだ風致に富む小高い丘がある。道路に面して建てられた鳥居をくゞり、石段を登りつめると丘上に「表忠碑」が建てられてある。これが三十九士の偉勳を語る三峽表忠碑である。

明治二十八年の七月、坊城少佐の率ゐる大隊は、三角湧、大嵙崁方面の匪賊掃蕩の任務を帶び、大嵙崁溪に沿つて前進した。櫻井特務曹長は糧食隊長として選拔兵三十五名を率ゐ、糧食は河舟十八隻に分載して溪を溯つた。

大隊は三角湧で宿營し、將兵に一日分の糧食を配給し、翌十三日の拂曉大嵙崁に向つて進發したが、糧食隊は本隊に後るゝこと約一時間、午後六時に纜を解いた。溯るに從つて水は漸く枯れ、水勢は次第に加はり、進軍頗る難澁を極めた。折柄居合せた兵器係大江軍曹以下の三名も加はり、全員三十九士一體となり、船夫を督勵して船を押し進めた。

未だ朝食もとらず懸命に船を押上げてゐた時、俄に起る銃聲。五六十の匪賊が左岸の堤防に現はれたのである。櫻井特務曹長は直に之が攻擊を令し、猛射を浴せて潰走せしめんとした時、背後に當つて又も騷然たる物音。忽ち見る右岸高地上に、銅鑼、太鼓を打ち鳴し、罵り騷ぐ五六百の匪賊の一團がある。意外賊の片影すら認めなかつた三角湧に、斯も多數の匪賊が潜伏して居やうとは。良民を裝つて先發の本隊を欺いたのであらう。今や腹背に敵を受けた我が糧食隊は不利な地形に惱まされつつも十數倍に餘る大匪軍に對し、奮戰激闘三時間に及んだが、敵は益々其の數を揩オ、味方は死傷相次ぎ、櫻井特務曹長は遂に敵彈に胸部を貫かれて茲に壯烈な戰死を遂げたのである。江橋軍曹は代つて全員の指揮を執つたが、戰況は益々不利に陷り、最早死中に活を求むるの一途のみとなつた。軍曹は突擊の令を下すや、猛然銃剱振つて最も優勢な匪群の真只中に突擊を敢行し、辛ふじて之を突破する事を得たが、此の時既に身には堪え難き重傷を蒙り、萬歲の聲も絕々に、大嵙崁溪畔護國の鬼と化し去つた。生殘つた者は僅に九名、內五名は重傷である。大勢の既に如何ともすべからざるを察知した江橋軍曹は、ポケツトより煙草を取出して部下に分與し、自らも亦悠々と一服を喫し、四名の無傷者に對して本隊へ急報を命じて去らしめたる後、重傷者四名と共に、悲壯な自刃を遂げた。

命を受けた四勇士は戰友の最後に心をひかれつゝも、報告の任務を身に體して、萬難苦闘の後、遂に本隊に到着して具さに情況を報告したのであつた。

嗚呼、壯烈無比。今や本島の太平を謳歌する事の出來るのは、是等勇士の尊き犧牲の賜である事を思ふとき、自ら襟を正さゞるを得ない。さればこそ忠列勇士の龜鑑として、且は我等の尊き恩人として、其の功績を萬代に傳へる為、大正十二年十一月、勇士奮戰の地を一眸の裡に收める臺地上に一基の碑を築いて英靈を迎へた。之が三峽表忠碑55 である。每年七月十三日には、碑前に於て盛大な祭典が行はれる習である。碑文に曰く、

「嗚呼鬼神泣壯烈者三角湧血戰之事蹟也臺灣鎮撫之時坊城支隊徇大嵙崁諸邑特務曹長櫻井茂夫等三十九名船運餉敵欲絕糧道兩岸夾擊我傳應戰悉殪生存者四名書孰不創痍矣實明治二十八年七月十三日也臺灣軍司令官陸軍大將福田雅太郎勤石次表其忠勇云」

 


55 碑建設

在鄉軍人海山分會竝三峽庄有志出資大正十二年十一月二十五日除幕式舉行

碑石

士林產花崗石高さ十一尺

 

 

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