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四 鄉土と青年

心の王座、鄉土愛。これこそは實に吾等の胸奧に於ける神秘的 存在である。

己が鄉土に對する好評讚辭を耳にする時は言ひ知れぬ誇と愉スとを覺え、不評惡罵 を聞く時は不快の感に打たれる。これは誰しも經驗するところであつて人間自然の衷情 である。部落自慢やお國自慢は鄉土を愛する心の現はれであつて、「人間到る處青山有り」と朗誦 する裡面にも、斷たんとして斷ち得ざる綿々の情が窺はれる。不可思議な力を持つものは鄉土である。

何故に鄉土は斯くまでに吾等に對して力強く作用するか。それは言ふまでもなく祖先墳墓の地であり、吾等の搖籃の地 であるからだ。吾等の使ふ言葉には自ら鄉土色があり、物の考へ方、感じ方、觀方にもそれ〲地方色がある。山の姿、雲のたゝずまひ、小川のせゝらぎ、森の色、青田の白鷺、草食む水牛、これ等鄉土の景物によつて吾等の心は養はれた。村の祭、祖先の墓參、其の他、四季折々の行事によつて吾等の魂は育まれた。人としての道や他人に對する禮儀作法も鄉人の間に於て學んだ。人の行為を批判 し、言動の是非善惡を辨別する心眼も鄉土に於て開かれた。言葉を換へて言へば鄉土の自然、鄉土の社會、鄉土の文化によつて人となつたからである。

然り吾等の魂、精神の中核、人格の根抵は鄉土に於て形造られた。鄉土と吾とは一體であつて、鄉土は吾であり吾は鄉土である。異鄉にあるものが折に觸れ時に應じて鄉愁 に襲はれるのも理である。真に鄉土は吾等の疲れた魂のオアシス であり、亂れた姿の統整所である。事の成否にかゝはらず骨を故山に埋めんと希ひ、最後の安住所を鄉土に求めるのも謂あることである。「歸るべき故鄉なくして何の錦ぞや。」よくも人情の機微 を穿つた言葉である。懷しき故鄉誇るべき鄉土を持つことは人生最大の幸福と言はねばならぬ。

黃金波打つ萬頃 の稻田、葉音さや〱と響く甘蔗畑、若葉桙髓ラ、秋の陽に黃玉映える蜜柑山、滿々と水を湛へた、貯水池、高フ竹藪に包まれた靜かな家々、文化の泉源たる學校、丹青の色眩ゆき廟宇、此の平和の象徵 とも言ふべき田園鄉土は誰の力によつて建設されたか。之は言ふまでもなく吾等の祖先の賜である。吾等の祖先は「幸福に滿たされたる鄉土」を理念 として、我が身を忘れて子孫の為に盡した。よりよき鄉土建設の為に一生を捧げた。鄉土の產業・交通・教育・衛生等あらゆる文化的施設は祖先の靈のこもる賜である。實に鄉土は吾等の祖先の賜であつて、吾等の魂の安住所である。吾等青年は此の貴き賜を愛護しなければならぬ。しかし人間には將來の希望に生きる反面に、過ぎ來し跡を追懷する性情がある。此の性情は自己の鄉土を完全無缺なるものゝ如く見る傾向を有する。之は大いに戒しむべきことである。

時は移る。吾等の鄉土も亦時の流に從つて進まなければならぬ。祖先の心血を注いで建設した鄉土にも、長所もあれば短所もあり美點もあれば缺點もある。靜かに鄉土の道コ的傾向、日常生活の樣相、風俗習慣、產業・交通・教育・衛生等仔細 に觀察すれば改善を要すべき點が多々ある。真に鄉土を知ることは困難であるが、吾等は自惚 や偏見 を去つて、正しく明確に鄉土を認識して長所は益々之を助長し、短所は之を矯正して理想鄉の建設に努力しなければならぬ。これは青年の重大な使命である。

起てよ若人、舊きは新しきに代り、老いは若きに讓るは世の習である。血緣 に親の別はあつても同じ流の水を汲み、同一水源の田畑に生を托し、同じ廟に額づき 、同じ信仰の下に生きつゝある吾等は祖先の心を心とし、互に協力して祖先の築いた王城、田園鄉土を愛護しなければならぬ。鄉土愛は人間自然の情であるが、たゞ自然的、本能的の愛 に止まらず、理性的 、認識的 に愛護して、よりよき鄉土たらしめなければならぬ。これ報本反始 の誠を致す所以である。

幸に吾等は田園鄉土を持つ。純朴敦厚は吾等の誇である。然しながら近代文化の發達と共に、其の反面たる惡風が陰に陽に浸潤 して、田園の美風を傷ひつつある。心なき青年は都會生活に憧れ、祖先の建設した田園鄉土を捨ゝ都會に走る。これは誠に歎はしきことである。勿論、田園には都市の華やかさはないが、質實剛健の氣風は常に田園に於て釀され 、之によつて都市の缺陷が救濟 されつゝあることを知らねばならぬ。田園の青年はよく都市を研究して認識を深めると共に、吾等の田園鄉土の價值特質を十分認識し、更に將來を考察して百年の大計を立て、祖先の業蹟たる田園鄉土を愛護しなければならぬ。

青年の活動如何は鄉土の運命を左右し、之は直に國勢の消長に關する。斷じて護れ青年。誓つて愛せよ早乙女、吾等の田園鄉土を。


23 神秘的

人智ではかることのできないふしぎなこと

24 惡罵

あしざまにいふこと

25 衷情
  まごころ  

26 朗誦

聲高からによむこと

27 搖籃の地

搖籃は小兒をいれておいて、時々うごかしてねむらせるかこ

幼時育つた所といふ意味

28 批判

ひひやうすること

29 鄉愁

故鄉を思つていろいろあんずること

30 オアシス

沙漠の中の樹木しげり泉のわき出る所、隊商の休む所

ここでは魂を休める所の意

31 機微

表面にあらはれないかすかなさざし

32 萬頃

地面の廣き樣

33象徵

しるし

34 理念

心にかうあるべきだと思はれてまだ實際に現はされないこと

ここでは理想の意にとつてよい

35仔細

こまかにくわしく

36自惚

實際によりもよく思ふこと

37偏見

正くない見方かたよつた考へ方

38 血緣

血すぢ

39 額づき

頭を地につけて拜むこと

40 本能的の愛

生れながらにもつてゐる愛

41 理性的

わけなくすることでなく、よくわけを知つてをつての意味

42 認識的

よいわるいをよく知りわけて目的に合ふやうにの意

43 報本反始

恩に謝すること

44 浸潤

だんだんしみこむこと

45 釀され

こしらへだされること

46 救濟

たすけすくふこと

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