二八 悲壯な戰死 明治二十九年の頃、三峽庄大埔の壯丁に陳印といふ人が居た。正直で職務に忠實であるところから、次第に信用を得て後には壯丁團長に舉げられ、地方の為には勿論、土匪の搜索や蕃人の防禦に盡しその功勞は少くなかつた。後隘男に採用され間もなく伍長に昇進した。 斯くして數年は過ぎ、明治三十七年に愈々生蕃討伐が開始される事となり、君は第一回の搜索隊に編入され部下百余名と共に成福大寮方面に出動した。彼地では晝夜を分たず、偵察搜索に從事した後、一旦我家に歸り、五日目に再び出動を命ぜられ、前の樣に山中に一夜を明して歸り、更に一週間目に第三回の出動の命を受けた時は生憎の風邪で床について居た。折も折、家には生まれて十三日目の次女があり、妻もまだ產褥中であつた。然し當時蕃情に精通する陳伍長が居なくては行動に支障を生ずる狀態にあつたので、責任觀念の強い彼は、一身一家を顧みる場合でないと、堅い決心をして出かける事にした。 產褥中の妻は夫の出征を思ふと、別れの切なさを押へて、自由でない身を起し、門出の祝に心ばかりの御馳走をこしらへてすゝめ、十一歲になる長男と共に、雄々しい夫の門出を見送つた。陳伍長も「產後の身を大切にせよ、坊やもおとなしくしておいで」と妻や子供をいたわりながら出發した。嗚呼之が最後の別れにならうとは神ならぬ身のどうして知る事が出來やう。夜風は傷ましくあたりを吹き荒し、空には十三日の月影が淡く照してゐる。時は四月三十日であつた。 さて陳伍長は其の夜は大寮に一泊し、翌五月一日はいよいよ蕃地に入る事となつた。五月二日の朝は志願して決死隊に加はり、特に選ばれて山深く偵察に出掛けた。同行者は巡察二名と隘勇十七名で、早朝より銃を肩に勇みたつて出發した。一行は谷を挾んで二隊に分れ、陳伍長は兩隊の連絡の任に當つた。路は險阻で暑さは酷い。困苦言葉に盡せなかつたが、屈せずよく任務を執つてゐた。 恰も其の時他の十八名の巡察隘勇を以て固守した駐在所は、兇蕃に破られ全部退却の己むなきに至つた。偵察對はそれとも知らず益々前進して居たが、其の中にめり〱と木の折れる音を聞き、動靜をうかゞつてゐると音は次第に近づいて來る。獸か兇蕃かと半信半疑、試に音する方に大石を押し落すと、繁みに隱れて居たのは正しく兇蕃であつた。それ兇蕃襲來と叫ぶ陳伍長の聲につづいて、ずどんと一發の銃聲、哀れ陳伍長は貫通創を受けて、パツタリ其の場に倒れ、流石の勇士も一言も出し得ず其の儘決命した。是を見た偵察隊は結束して奮戰したが、衆寡敵せず陳伍長の死體を岩窟內に隱して退却を始めた。 かうして陳伍長は恨をのんで兇蕃の銃先に斃れたが、其の功空しからず今次の偵察によつて蕃人出草の道筋、山の狀勢、蕃情等が詳かになり、後日の討伐や夜襲等に大いに利するところがあつた。 悲報は其の夜(五月二日)の九時に陳家に達した。それを聞いた妻の心はどんなであつたらう。然し流石は君の妻、悲しい中にも夫は國家の為に斃れたのであると自ら慰めるところがあつて、その後は一層身を慎み、甲斐々々しく遺兒を養育し貧しい中にも衣食に窮せず其の日を過してゐる。 其の年の十月、三角湧支廳長を始め支廳員及び隘勇等の發起により君の功績を永久に傳へる為、表忠碑を宅前に建設し、盛大なる追悼會を舉行し以て氏の靈を慰めた。村民も亦君の死を惜まぬものなく舉げて參會した。其の翌三十八年の九月に至り兇蕃も鎮定したので、伍長の遺骸を收容して表忠碑下に埋葬した。其の後表忠碑は大埔公學校庭に移され、永久に大埔を守護し、忠烈無雙な故陳伍長の靈は其の下に安らかに眠つて居る。官廳は伍長生前の功により遺族に死亡賜金及び慰藉料を賜り、其の靈は靖國神社並に建功神社に合祀せられて居る。
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