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二七 蕃人物語

今の三峽庄大豹及び其の附近一帶の山地は、嘗て大豹蕃・双溪蕃・東眼蕃・五寮蕃の蕃人が占據して居たところで、これ等を總稱して九穴蕃と呼んでゐた。

この九穴蕃は一般に慓悍兇暴を以て知られ、常に出草馘首を以て唯一無二の快事とし、殘忍暴虐の限りを盡してゐた。

今より約三十年前まで今の大埔は勿論、東は成福・溪・控子の邊まで出沒して、或る時は開墾、耕作、茶摘等に從事してゐる良民を殺戮し、又或る時は此所彼所の民家を襲擊する等、戰慄するやうな蕃害を聞くことは決して珍しくなかつたとのことである。

こゝに一二の悲しい物語を紹介しよう。時は明治二十九年舊曆七月二日、いつになくからりと晴れ渡つた朗かな朝であつた。許坤地と扁鵠と二人の兄弟は、大埔火炭潭の山蔭にある田圃に出で、兄は水牛を使つて田の鋤起しに、弟は畦切り餘念なくせつせと働いてゐた。

豫てより蕃人はこの許兄弟が同所に來り働くことを知り、何時か折があつたら兄弟の首級をものしてやらうと、時の至るを待つて居たのであつた。そして今日しも、十一二歲と思はれる蕃童を連れた老蕃四人は、山頂から二人の樣子を窺つてゐたが、時節はよしと山を下り谷を渡つて田圃に近づき、木蔭に銃を擬して機の熟するのを待つてゐたのである。

かくとは神ならぬ身の知る由もなく、兄の坤地は漸く一畝を鋤起し、牛を返して次の畝にかゝらんとしたその時、霹靂一聲、哀れ坤地は胸部を打ち拔かれて其の場に昏倒した。老蕃等は雀躍しつつその首を搔き落し、斗干 に納め雲を霞と遁走した。弟扁鵠は餘りのことに暫し呆然としたが、直に急を家族近鄰に報じた。激昂した人々は時を移さず、各々得物を手にして兇蕃の跡を追ひ山を包圍したのであつた。一方老蕃等は逃走の途中路を失ひ、その中逆襲の氣配を知つたので巧に姿を山腹の叢の中に隱した。

隣人の中にケ羊といふ者があつた。彼は豪膽を以て聞えてゐた。先頭に立つて一同を鼓舞しながら進んでゐる中、一發の銃聲は叢の中より起り彼は腹部を射貫かれ、谷川へ轉落してしまつた。味方の勇士を失つた同勢は、愈々怒號狂しつつゝ喚を息もつかず突入し、奮戰數刻、遂に恨み重なる兇蕃四名を同じ枕に斃したのであつた。そこで直に坤地の首級を取り戻し、一同凱歌を揚げて歸途につかうとした時、傍の木蔭に顏色蒼白となつて、目を閉ぢ龜の子のやうに縮み込んでゐる蕃童があつた。そして只恐怖に戰き「クタン・ククン 」と聲を震はせて叫ぶのであつた。一同の中には虜にと云ふ者もあつたが、「否これも仇の片割だ」と呼ぶが早いか、血を吞んだ白刃は蕃童の左肩より右脇に斬り下げられた。兇猛限りなき仇敵の片割とはいへ、哀れ幼年の身で蕃山の露と散つた蕃童、鮮血にまみれて斃れた有樣は、見る者の目を蔽はしめたと語り傳へられて居る。

又次の樣な物語もある。十數名の蕃人が東部の山頂を辿つて控子に出で、當時控子の山頂にあつた一軒家劉漏生の家を襲つた。そして其家族六人を殺戮して、六箇の首級を取つたが、まだ幼い女の子一人だけはどうした譯か殺さず蕃社に伴れ歸つたのである、その子は蕃社で蕃人同樣に育てられ、やがて年頃となつて或る蕃丁と結婚した。風の便りに聞けば猶達者でゐるとのことであるが、過ぎし日不慮の樁事に遭遇して、呆然自失、唯目を見張り聲を吞んで其の成行に任し、淚に濡るる袂を家鄉に別ちてより、蕃山に春風秋雨の幾星霜を過し、寄る年波に雨の朝風の夕、遠く戀しき故鄉の空を打ち眺め、一人淋しく淚に濡れてゐることであらう。

その後も大豹附近は蕃地として永らく行政區域外にあつたが、昭和七年二月一日、行政區域として三峽庄に編入されたのである。かくて昔殘忍凶猛飽くなき蕃人占據の地も、今や普く皇化霑ふ平和鄉となつたのである。


95 斗干

背負ふ綱のこと

96 クタンは斬るの意

 

 

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