二六 大安寮忠魂碑 臺北平野を貫流する淡水河の上流、大嵙崁溪の分れて大安碑圳となり、碧水流れて大安碧潭となる處、その丘上臺北平野を一眸にをさめて、遠く桃園の高原を望み風光絕佳の地に大安寮忠魂碑あり。 その由來を尋ねんに、明治二十七八年の役終りを告げ、臺灣我が版圖となりしも、匪賊各所に出歿、皇威に反抗し良民を苦しむるを以つて、明治大帝は北白川宮能久親王殿下に、之が平定の大命を下されたり。 故宮殿下は近衛の精銳を率ゐて征途に上らせ給ひ、明治二十八年五月下旬澳底に御上陸遊ばされしが此際進衛騎兵大隊は、偵察の結果騎行不可能に依り、基隆に廻航し六月七日同地に上陸、基隆城攻略の近衛師團の主力と合し南進、同九日臺北を占領す。敵兵淡水新竹方面に退却せしも、臺北以南は、敵兵頻りに出歿し特に大嵙崁(土城庄)三角湧(三峽庄)附近は其の跳梁甚しく、騎兵隊は常に之が偵察に從事し、越へて七月十五日正午、騎兵大隊第二中隊第三小隊長山本好道特務曹長は部下二十二騎を隨へ、大嵙崁方面の敵狀偵察の任を持つて臺北南端(萬華)を發し、大嵙崁溪に沿ひ前進せり。 沿道の住民は、各戶に日章旗を揭げ、皇軍歡迎の意を表せり。枋橋頭(板橋)林維源(林本源)邸にて茶菓の響應を受け、更に大嵙崁溪右岸に沿ひ前進、暑氣徒らに強く、加ふるに惡路膝下を沒し、騎行困難筆舌に絕す。千辛萬苦を重ね大安寮に到着す、當時此地は蔭蔽地なりし為、偵察隊は道なき山麓を分け、或は家屋の周圍を迂回し、漸く開濶地に出たりしに、俄然前方の密林中より銃聲あり。緊張の剎那、又も對岸及左方高地より一齊射擊を受け、續いて雨霰の如く亂射を受けたれば、山本隊長は直ちに徒步戰を命じ左右三百余の敵に對抗奮戰したるも、澤地にして蔭蔽物なく退却の止むなきに至り應戰しつつ大安寮に退却せり。此時既に數名の騎卒を失ひ、乘馬二頭は敵彈に斃れ、江大崑宅に到り點檢するに殘るは十二騎と徒步追隨の榊原一等卒の十三名のみ。 江家に據り尚ほ應戰せしも、敵は周圍の高地又は森林より亂射進擊、稍もすれば重圍に陷らんとし、全滅せんとせしを、江大崑氏竹圍を伐り開き退路を示し避けんことを獎む。 十三名これが為重圍を脫せしも、岐路多く自から二分、右せしは何れも行方不明、左せしは九死に一生を得て板橋に歸着せし松村、宮崎、櫻田の三士のみなりき。 三名は戰友の消息不明に止むなく新莊に至りて、杉浦騎兵中隊長に遂一狀況を報告臺北本部に歸着せり。 爾來春風秋雨年を閱すること三十四星霜、この赫々たる十九士の遺跡も殆んど湮滅せんとせしが、當時騎兵中尉として從軍、この戰跡を知られし田中國重中將の、昭和三年臺灣軍司令として莅任せらるゝや、往時を追想軍務の餘暇當時の戰跡を尋ねらるゝに、何等の勳跡を遺すなきを遺憾とせられ、忠魂碑建設の議を起し、土城庄民其他の熱烈なる援助に依り十九士の忠魂碑を建設され、昭和三年四月二十五日自ら委員長となられ、上田總督を始めとし官民多數列席忠魂碑除幕式を舉行せられたり。 以後每年七月十五日殉日當日を期し、土城庄の主催に依り盛大なる忠魂碑の祭典を執行するを例とす。十九士の一死報國の至誠は斯くして其英靈と共に永へに後世に傳へられるゝに至れり。 嗚呼、宜なる哉
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