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二五 潭底池の今昔

樹林驛より州道を北に一粁餘り行くと、田圃の中に鐵筋造りの建物がある。これは此の附近一帶二百余甲步の潭底池を中心とした低濕地の水を排水し、現在の如き美田となした記念の建物である。此の建物を治水亭と名づけ次の樣な碑文が記してある。

治水亭記

潭底低地。凡二百甲。每逢大雨。化為湖沼。稻被其害。農民苦之。大正十四年九月。海山郡守石田治郎鶯歌庄長黃純青謀創潭底水利組合施設排水工事。以治其害。昭和七年三月。海山郡守松野孝一建治水亭。黃純青作文以記其事。此の潭底池は、治水工事以前は全く湖水で其の湖面には、常に滿々たる水を湛へ、小舟竹筏等も通ふ事が出來、尚以前に於ては淡水河を溯つて、ジヤンク船が出入したといふ事も言ひ傳へられてゐる。

又水清き湖面には西の連山影をうつし、且菱・菰等叢生し、其の間には水鳥が棲息して、風景絕佳、臺北近郊の遊獵地として知られたところである。

現總督府評議會員黃純青氏が樹林區長時代編纂せる樹林區誌の中に、名勝地としての潭底として次の如き文がある。

潭底山麓。有蓤塘焉。俗稱潭底陂。廣三百九十畝有奇。水深六七尺。下積淤泥二三尺。塘淺處。種藺及茭白。深處生蓤芡。葉披水面。小者如錢。大者如傘。萍雜其中。隨風飄動。游魚戯於下。水鳥鳴於上。每當夕陽西下。漁人乘桴發筍。山色與潭光相映。風景絕佳。為臺北市近郊有名之游獵地也。

然し一度雨期となれば、背後の山地より流れ込む雨水の為一時に攝し、附近一帶の山田に氾濫し每年農作物の被害甚だしく、農民は常に生活に苦しむ狀態であつた。ために明治三十七年以來排水工事の實施方を當局に嘆願し、當局に於ても其の必要を認め、愈々大正十四年九月時の海山郡守石田治郎氏は鶯歌庄長黃純青氏と相謀り、潭底水利組合を創立し排水工事に着手したのである。即ち雨水の本區域內に流入するを防ぎ又區域內の溜水、雨水及び湧水を排除する為二ヶ年の繼續事業を以て、排水溝幹線約三粁、第一、第二の支線約一粁を開鑿し、大嵙崁溪に此等の水を排出することにしたのである。

此の排水工事に要したる事業費は五萬五千圓、昭和二年に完成したのであるが、其の結果中央の最低地たりし二十餘甲步を殘し、百八十甲步は一躍して美田となり、且又年々の洪水の被害より免るゝことが出來たのである。

水田に適せざる深田二十余甲步は現在菰、藺草の栽培に適し、まこもは十月頃となれば、樹林驛より臺北方面に搬出せられ、又藺草を原料としての潭底莫蓙は有名なものである。

 

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