二四 達脇支廳長を偲ぶ 海山郡の最南、山紫水明の地三峽の町も、今では立派な庄役場公會堂があり、殊に一筋道とは言へ煉瓦造二偕建の家が軒をならべてゐて、始めて來遊した人々は驚く程であるが、二十年も前の町は見られたものではなかつた。道の幅も狹く軒並は不揃で、その上亭仔腳は危險で下水道もなく極めて不潔でもあつた。しかし今までそれになれて来た人々にとつては何とも感じなかつた。此の時當時の三角湧支廳長として來任した人こそ今ここに語らうとする達脇良太郎氏である。 氏は京都の人、人となり沈着剛毅、高潔な人格者で、部下を愛することも深かつたが、又一面嚴格な人であつた。大正四年四月着任、三角湧の町を見てつく〱市區改正の必要を感じその計畫をたてた。それは從來の亭仔腳をとりこはして道幅を廣め、新築する亭仔腳は全部煉瓦造とし軒並を正しく揃へることであつた。翌年になつて人々に此の事をはかると有志の人々は大いに之に贊成したが、一般の人々は舊態になれてゐて、さほどその必要を感じなかつた。しかし氏はこの町の將來を思ふと、どうしてもこのままにしてはおけなかつた。市區改正が一年でも早ければそれだけ町の人々の幸福であると思ひ、現在反對する人があつても將來は必ず自分の真意が判つてもらへると信じ、一部の反對には耳を藉さず、之を斷行することに決心した。 さて愈々著手して見ると、當局からは別に補助金を貲へるではなし、費用はすべて各戶の自辨で、それも五圓拾圓のはした金では出來ず、百圓貳百圓或はそれ以上まとまつた金を要する上、もともと何等不便を感じない人々の事とてなか〱改築が捗らなかつた。氏は部下の警察に監督させるだけでなく、退廳後は自らも草鞋ばきとなつて出かけ、色々と苦情を云ふ者には、或は叱り或は諭し事業の前には私情を殺して熱心に指導し勵ました。 この鐵をも熔さんばかりの熱誠の前には、初めは尻込みしてゐた一部の人々も漸く改築に著手するやうになつて、最初どうかと危ぶまれた此の事業も著々と進み、やがて全部の道路が廣められ煉瓦造の亭仔腳が軒並を揃へて面目一新した。その後は家を新築する場合皆鄰近所にならひ、市場豫定地と定められた方面へも數年ならずして同樣の家屋が立ち並び、氏の努力は遂に酬いられて今日の三峽となつた。
|