二三 義俠の少年 板橋街の片田四汴頭に貧しい年とつた一人の農夫が、妻と息子と三人で佗しく其の日を送つて居た。 貧しい老夫婦に只一つの慰めとなるものは氣立の優しい一人息子の江鳳塗君であつたので、不如意な生活ならもせめて公學校だけは卒業させたいといふ決心で、一里も離れた板橋公學校に入學させた。 幼い時から親しく父母の困窮を目にしてゐる江鳳塗君は、一日も早く貧困の攻苦から免れて、父母を慰めなければならないとの淚ぐましい孝心が小さい彼の胸の中に一杯であつた。この孝心より外に何物もない彼は、惡戯盛りの一年生の頃から學校が終つて歸ると、雨の日も風の日も、忠實に父の石炭臺車の後押をしたり、熱心に母の野菜畑の手入をしたりして過した。六年生になつた此の頃では、彼の手助が、老いた父母にとつては何よりの力であつた。 は大正十三年五月七日、學校の授業も無事に了へて家に歸つたのは午後二時頃であつた。元氣あ息子の姿を見た父は一里あまりさきの土城の山に行つて、竹を伐つて來る樣に命ずると、從順な彼は書物をおくとすぐに鎌と繩を持つて健氣にも只一人出て行つた。 十四五貫もある青竹の東を肩にして歸途についたのは午後三時すぎであつた。真夏に劣らぬ暑さ、荷は重くなる、汗は流れる、呼吸はつまる、眼もくらみさうである。けれども早く歸つて父母を喜ばせようといふ孝心は、彼の足の運びを弛めさせなかつた。丁度四汴頭碑川の堰止に差しかゝつた時である。碧い流は一丈餘り瀧となり、滔々と水勢をたぎらしてゐる。見ると七八歲の子供三人が、此の流れに浸つて無心に泳いでゐる。それを見ると重い荷を路端に下して、背をぐつと伸して一息ついた。 子供等は危ないのも知らずに夢中に噪いてゐる。何時の間にか中の一人が渦巻に巻き込まれて、「助けて助けて、」と悲鳴をあげてゐる。外の二人の子供は吃驚して助けるどころか、雲を霞と逃げてしまつた。この有樣を見た彼は、はつと上衣を脫ぎ棄て渦巻目がけてぎんぶと飛び込み、「早く、〱、」とその子供を淺Pに押し遣つた。子供を救ひはしたものゝ其の時哀れや彼は大渦巻に巻き込まれ、とう〱姿は川底深く見えなくなつてしまつた。助けられた子供は聲を限りに呼んだがあたりには人影も見えない、子供は泣きさけびながら遙か向ふの家の方に姿を消した。路端には一束の青竹と主を失つた上衣と鎌とが、物淋しげに散らばつてゐる。四邊は靜まり返つて、唯水の音ばかり高くひゞいてゐる。 かれこれ一時間許りの後に、わい〱と騷ぎながら男女の一群が走つて來る。自轉車に乘つた警官が飛んで来る、醫者が來る、上を下への大騷をした。けれども遂に其の甲斐もなく、彼は未だ人世の春にも逢はず、はかなくも歸らぬ人となり、血の氣のない青白い屍は多くの人々に取り圍まれて悲しまれた。 冷たい屍に取縋つた二人の老夫婦は、 「鳳塗や、鳳塗なぜ返事をしないか。どうしたのか、、もう一度お父さんといつておくれ。お母さんといつておくれ。よくも人を助けてやつた。」 と生きたる人にいふ樣に泣きくづれた。居合せた人々も皆貰ひ泣きました。彼の行為は程なく遠近に傳はつた。幾百人の學友は彼の死を悲しんで我先にと弔慰金を醵出した。先生達は勿論その教へ子の花々しい行に感激して口を極めて賞めたゝへた、庒民も舉つて彼の行に感じ、懇なる供養と盛大なる表彰式を舉げて彼の冥福を祈つた。嗚呼志士仁人の行にも劣らない彼の尊い死は永遠に、淚ぐましい物語となつて傳るであらう。
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