二二 昭和橋 雄大なワイヤロープの曲線、巨大な鐵柱の胸のすくやうな直線、鐵柱と橋腳との力學的な接觸點、この力と美との融合した姿態を新店溪上に誇つてゐるのが、我が昭和橋である。つい最近迄、海山郡と臺北市とを繫ぐものとしては、唯一條の鐵道を除いては數箇所の渡船場があるだけであつた。而してこれ等の渡船と云つても、雨季攝の際には、交通全く杜絕するから、その不便は言ふ迄もない。現代文明都市を誇る臺北市を一步離れたばかりの處に昔ながらの水馴棹も悠々と漕いで行く渡船の姿は、げにもわびしいものであつた。現在の昭和橋の位置にも、一つの渡船場があつて、「港子嘴の渡し」と呼ばれて居た。昭和七年三月二十六日、この渡船場のほとりに、一大工事が起工され、爾來一年五箇月の歲月と五萬三千人の努力を費し、總工費貳拾貳萬の巨費を投じて、昭和八年三月三十一日に竣工式を舉げたのが、實に我が昭和橋である。 橋の長さ三六七米、幅四・五米、二箇の橋腳と直徑五糎の鐵線十九本を合して一束とした親線及直徑三・八糎の吊線に依つて支へられた吊橋で、清楚の裡に毅然たる姿を見せて居る。飾らざる美・恰も我が海山郡の象徵とも云へよう。 昭和橋の完成と共に、之より板橋を經て三峽に通ずる道路の擴張が行はれ、兩々相俟つて今や板橋を中心とする郡下交通網の幹線として、島都との聯絡は因より、產業の開發に、文化の進展に著しい貢献を為しつつある。轍の音も輕やかに、馳せ來り走り去るタクシー、乘合自動車、貨物自動車、自轉車、リヤカー等々々。長閑な渡船の面影は最早求むる由もない。 然しながら、この橋、この道の出來る迄には、郡下官民幾多の人々の熱心なる提唱と犧牲とが拂はれて居ることを忘れてはならぬ。工事費及勞力の一部を負擔し、或ひ用地の寄附を為す等、旺盛なる公共的精神の發露ありたればこそ、茲に今日の結果を見たのである。 顧るに我が郡下には、河溪縱に通じ、之が為に蒙る交通上の支障は蓋し尠くない。之等に對する架橋は實に目下の急務であつて、將來鄉土の繁榮を背負つて立つべき男女青年は、一致協力、第二第三の昭和橋の完成を目指して、覺悟を新にせなければならない。
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