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二一 鶯歌石鳶山

「鳶山の大鳶 鶯歌石の大鸚鵡何か曰くでも有りさうだね。」

「有るとも大有りさ、獵奇家の君が涎を垂らすやうな怪奇な傳說があるんだ。」

「怪奇! 化鳶に化鸚鵡つてわけかな。」

「さうだ確に化鳶に化鸚鵡だ。昔此の二怪鳥が相呼應して毒霧を吐き合つたと云ふんだよ」

どんよりと薄墨をはいたやうな空は、眼下に遙かに續く豪壯な大自然の上に、魔物のやうに覆ひかぶさつてゐるどすKい四邊の木々をふるはせ、くすぶつた碑文94 を撫でる風はなまぬるく、僕達の上氣した頰をなぶつて行く。洞窟は薄暗く陰慘だ。何處かで絕え入るやうに山鳩が鳴いた。

「さあその毒霧の為に此の附近を過ぎる鳥獸は勿論、人間までも損はれ地方に疫病が蔓延して猛威をふるつた。」

「ほう、那須野の殺生石つて所だな。毒霧を吐くのは今もかい。」

「冗談ぢやない。今もまだ毒霧を吐くんだつたら、それこそ今ごろ君と僕とお佗佛だ。平氣でこんな話なんか出來たものぢやない。」

「ははあ、すると此處にも玄翁和尚が出て來たつて譯だね。誰かね玄翁和尚をつとめたのは。」

「國姓爺だ。知つてゐるだらう、あの鄭成功さ。成功が此の邊にやつて來た事があるさうだ。」

「鄭成功が!土匪討伐にだらうか。」

「歷史にそんな事實は出てゐないが、理蕃の為に軍を率ゐて來たと云はれてゐる。あの尖山は成功の率ゐて來た兵卒の草鞋の土が積つて出來た傳へられる位だから、兔に角此の邊に大軍を率ゐて屯したらしい。その成功の軍も此の二怪鳥の吐き出す毒霧に大いに惱まされたんだ。成功は大いに怒つて、吐きかけて来る毒霧を拂ひながら先づ怪鸚鵡へ迫つて、頭を一刀の下に兩斷した上、殘る怪鳶を此處から大砲でねらつて見事顎を打放してしまつた。それからやつと此の二怪鳥は其のおそろしい災を止めてしまつたと言ふ譯だ。」

「まるでお伽話のやうだね。成功樣々だ。」

「さうだ。此の四邊の人にとつて成功は大恩人だよ。所で面白いのは此の邊の人が、まだ時折鳶山の怪鳶は毒霧ではないが、白霧を吐くなんて、それ許りぢやない、此の二怪石を虹が連ねたら恐ろしい天變地異が起るとさへ言つてゐる。」

「ほう、凄い話だね。それは又何故だらう。」

「僕にも分からない。兎に角言ひ傳へなんだから、ほら一寸御覽。此處に燃え殘つたお線香がある。一體ここいらの人がお線香を供へるのは、どんな氣持からだらうか。」

「さあね。この怪奇な傳說から何か靈氣みたいなものを感ずるんぢやないかね。」

「さうかも知れない。鶯歌の人達にとつては、あの鳶や此の石は實に神秘な存在なんだ。彼等は此の巨岩を攀ぢる事をしない許りでなく、近づく事さへもあまりない。」

何だか覆ひ被さるやうな靈氣の迫力をさへも感じながら、「此の次は如何にかして上まで登る」と、いきまくS、と高臺の小さな家の庭先にやつと息をついた頃、暮れ易い小春の日も暮れそめて、雲行きの荒くなつた茜色の空に遠く毅然とした大鳶。いつの間にかゝつたか白雲が低く怪鳥の頭の邊を包んで、思ひなしかひたひた迫る夕闇の中に白霧を吐きながら、銳い眸を瞬いて僕等を怒るかのやうだ。」


94 碑文

鸚哥鳥名石狀

如鳥故鸚哥石

鸚歌鶯歌

同音今稱鶯

歌者誤也

 

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