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二〇 海山郡の地質

郡下の東南部は蕃界嶺で、南西部は桃園臺地と山子腳の山である。この間を淡水河が流れてゐて、その流域に平野がひらけてゐる。これは我が郡の地勢の大體であるが、これがどうして出來たが、その地質を調べて見よう。

地質を調べるには、先づその地史を知つてゐなければならない。地殼 は一日もじつとしてゐない。いつも動いてゐる。高くなつたり低くなつたりして、海底が盛り上つて陸地になることもあれば、陸地が海底に沈下することもある。この變動はほどひどかつた。

また風雨の力によつて、長い年月の間に大きな變化を來すこともある。かういふやうな地殼の變遷の歷史を地史といふのである。そして人類の歷史に時代があるやうに、地史にも時代がある。

海山郡の現在の土地が出來たのは、左程古いことではない。新生代の初め頃は山地も平地も全く海底であつたらうと推定されてゐる。それが第三紀の中頃から終りにかけて山子腳・三峽・土城・南勢角あたりの山地が出來た。次に出來たのは桃園臺地で第四紀の前半のことである。三峽庄の大埔や十三添附近の土地もこれと同時代に出來た。淡水河流域の平野は第四紀の後半に出來たもので、最も新しい土地である。

山地

郡下の山地は海底が隆起して出來たもので、殆ど砂岩や頁岩によつて蓋はれてゐる。あちらこちらの介殼やウニ海膽類の化石が發見され、所々に石灰岩が露出してゐる。各所に炭坑もある。これはこの地帶が海底であつたことを證明するものである。

流砂や粘土が海底に堆積して固つて出來たものが、砂岩や頁岩である。だから其の間に介殼や海膽類の化石が發見されるのは極めて自然なことである。

この地帶の石灰岩は有孔蟲石灰岩 で、海に棲息してゐた有孔蟲の死骸が堆積して固くなつたものである。蟲眼鏡で見ればそれがよく見えるのであるが、肉眼でも注意して見ればわからないことはない。有名な鶯歌石もこの有孔蟲石灰岩の露出したものである。

石炭は流木が海底で炭化したものであると推定されてゐる。しかしこの層から出る石炭は、朝鮮などにある古生代の石炭紀に出來たものに比ぶれば年數を經てゐないから炭質は餘りよくない。

臺地

第四紀の前半の頃までは、山子腳の山は三峽庄の鳶山の方と接續してゐたので、淡水河は大溪郡石門の附近から西に流れてゐた。桃園臺地はこの河水によつて流出された砂礫で出來たものである。大湖や尖山附近の紅土の中にマルミ圓味のある大小の石が數限りなくあるのを見たら、この邊が昔河床であつたことがうなづけるであらう。

かうして出來た土質を洪積層といひ、この時代を洪積世といふのである。三峽庄の大埔や十三添の附近も三峽溪によつて出來た洪積府である。

平野

山子腳の山と鳶山の間が斷層によつて切れてしまつたので、淡水河は臺北の方に流れるやうになつた。ところが後大屯火山彙の噴出があつて、河水の出口を塞いでしまつたので、臺北附近一帶は湖になつてしまつた。

そこへ大溪方面や新店方面から盛に土砂が流れ込んで來た為に、湖は年が經るにつれて淺くなつて行つた。地質學者の研究によれば、七千年位前までは湖であつたらうと考へられてゐる。ところが塞いでゐた場所が水のために崩されてしまつたので、湖水が海に流れ出てそのあとに湖底が現はれて来た。これが現在の淡水河流域の平野である。今でも建築工事などのため、地下を堀下げると、湖に棲む生物が現はれるさうである。

かういふやうに河水などによつて土砂が沖積して、最近に出來た土地を沖積層といひ、地史上沖積世といふのである。現在の都會の大部分はこの沖積層にひらけてゐる。

尖山

面白いのは尖山である。この山は桃園臺地の北端に、ほつねんと立つてゐる尖つた小山であるが、これは今まで述べたものとは土質も異つてゐるが、出來方も變つてゐる。周圍の土が例の紅土であるのに反し、これはK土である。傳說に依れば鄭成功の兵士の草鞋の塚であるといはれてゐるが、勿論そんなお伽噺めいたものではに。

これは第三紀の終り頃に噴出したもので、Kい土は玄武岩の風化したものである。郡下ではこの他に三峽・土城の庄界の山地に數箇所玄武岩の露出したものがある。

以上で郡下の地質の大體を述べたのであるが、魚介の棲家であつた大海原が、いろ〱な變動を經て、今では我等の住みよい誇りの鄉土、名も海山郡となつたといふことを考へると、地殼の變遷といふものは、ほんとうに面白いものである。


92 地殼

地球の表皮

93 有孔蟲石灰岩

珊瑚石灰岩から石灰がとれるやうにこの石からもとれる。

 

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