二九 大墓公 臺北市を去ること南に十粁餘、海山郡土城庄字碑塘、大安碑圳の靜かな清流のほとり、老木の茂る丘に香煙の為にKずんだ碑石に、『萬善同歸』と刻まれた苔むす一古墳がある。人呼んで大墓公と云つて居る。 今を去ること二百年の昔、此の附近に住む泉州人、漳州人が相反目して常に爭つて居た。或る時、泉州人の一人が漳州人の部落に行つて樹木を伐つたのを、漳州人に咎められたのを怨んで、泉州人相謀つて漳州人の謀反を官に誣告した。 官は直ちに、その真相を調查することなく、之を信じて漳州人部落に解散を命じたのであつた。時の卑塘の有力者黃家はこの命令に應じなかつたので、官は再びその非を諭して更に解散を命じた。 黃家は非常に怒つて無謀抵抗を試みやうとしたので、附近の住民は危險を思ひ安全な地へと蝟集したのであつたが、官は此の集團を反軍と誤解して軍を向けて討伐した。思ひがけぬ討伐の軍に、逃げ迷ふ老若男女の刃に斃れたるもの、傷ついたもの數へることさへ出來なかつたほどであつた。その為に屍は山となり、血は流れて草木を染め、慘狀目もあてられなかつたと云ふことである。翌年三月に官命を以つてその遺骨を集め合葬したので、この多くの人々の墓主を、今日俗に大墓公と云つて居る。 每年舊曆七月十二日十三日、兩日にはこの無緣の亡靈を祭る為に放水燈、普陀の祭典をして居るが、特に物奪競爭は州下に於て名高いものである。この物奪競爭と云ふのは、亡靈が多いので供物が不足して、亡靈の怨恨が惡疫を流行させることを恐れた部落民の功利的な供物の方法であると云ふ。それは、幾千の亡靈に一々供物をすることが出來ないので、一部の品を供へて亡靈達の自由爭奪に任せて、力の強弱に依つて亡靈を諦めさせやうとする、笑ふべき迷信ではあるけれども、祭典當日にはこれを見物しやうとして集まる人の群は數萬と云はれて居る。 春秋ここに二百年。今なほ庄民の噂に殘る大墓公の物語、香を焚く參詣者の遠近より集ひ來る日々跡を絕えない。 地名碑塘は、殺された人々の血が大池を紅に染めたので名づけられたと古老は云つて居る......。 鄉土讀本 我等の海山 終
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