第十章 主要市街、名所舊蹟 第一節 主要市街 一、 板橋 板橋は郡の北東に位し、郡役所々在地にして郡下物資の集散地たり。板橋街役場、彰化銀行支店、海山自動車會社、郵便局、無線電信通信所、ラジオ放送所、小公學校等あり。西隅には有名なる富豪林本源の舊邸あり、四汴頭料理、板橋藝妲の名は往時殷盛を偲ばしむ。 郡下第一の市街にして既に水道の設備あり、又目下工事中の新店溪架橋竣功の曉は、臺北市の郊外都市として急激なる發達を見るべし。 二、樹林 鶯歌庄の東端に位する部落にして庄役場の所在地たり。古來紅酒の產地たる關係上、其の規模に於て全島一二を爭ふ專賣局酒工場あり。相當の街衢を為し地方として殷盛なり。 三、鶯歌 鶯歌庄の西端に發達せる街衢にして、石炭其他山地の物資集散地たり。鶯歌驛は貨物の取扱量に於て本島各驛中十位を下らず。又尖山燒の產地たり。 四、三峽 三峽は元三角湧と稱し、三角湧辨務署、三角湧支廳のありし所にして明治二十八年以來普く知られたる處なり。地況南方背面に高山を負ひ、三角湧溪畔に沿ひ、山村稀に見る整然たる街衢を為し庄役場、警察課分室、海山輕鐵會社等ありて、奧地の產物何れも此處を通過し商況殷賑を極む。この奧に三井合名會社の製茶工場を控ふ。 第二節 名所 郡內に於ける名所は少きも、古來有名なる林本源庭園及鶯歌石、鳶山、又は板橋無線送信所、ラジオ放送所、專賣局樹林酒工場、石壁湖山圓通禪寺等あり。 一、林本源庭園 板橋街板橋に在り、庭園のみの面積約五、五〇〇坪を有し、園の西南部に位置せる林家住宅其他附屬建築物敷地面積を合せて一七、三一〇坪の廣大さに達す。由來林本源とは「飲水本思源即ち諸事本源を忘るる勿れ」の字句より命名せられたる家號なり。臺灣に於ける林家の始祖林平侯なる者福建省龍溪縣の人にして、同人父林應寅、單身今を距る二百年前、中御門天皇の享保十三年本島に來り、淡水縣新莊(今新莊郡新莊)に居を卜し書房を設け專ら子弟の教養に盡せるに、當時父を慕ふて十六歲の年齒たりし平侯渡臺し初め米商に從事後鹽務の有利なるに著眼し、合資を以て全臺灣の鹽館を経營すると同時に帆船を購ひ更に運輸業を營み、遠く南洋各地に賣り捌き一躍巨萬の富をなせりと云ふ。本國に歸還後更に渡臺し、新莊に居住せるも當時同地は要衝の地にして、人種分類械闘の度每に其の中心地となり、損失不尠、遂に意を決して大嵙崁(今の新竹州大溪)に轉居し、力を農事に盡し荒蕪地を開拓し水利の便を設け進んで臺北地方より遠く宜蘭の地に及ぶ。年と共に收益多きを加へ臺灣第一の富豪として自他共に許す身となれり。平候他界の後第三房國華及第五房國芳なる者、咸豐三年(嘉永六年)邸宅を大嵙崁より板橋に移し、文章家其他多くの名士を招聘し、大ひに修養に努め、臺灣文化に貢獻する處多く、且つ蕃地の膏腴なるに著眼し、開墾に力め道路を拓き、交通を便にし、租穀又十數萬石の揄チを見るに至れり。咸豐七年國華歿し、次男維源は長男維讓と共に對岸廈門に於て修學中なりしが、國華歿するに及び歸臺し、家政處理の傍ら、農民を脅迫し金穀を掠奪せる元桃澗堡總理たりコ源を平げ地方の民心を安ぜしめ大ひに人望を得たり。其後維源は軍用金六十萬兩を獻して內閣中書となり。或は臺灣撫懇大臣光祿大夫侍郎又は生蕃討伐の際、鐵路協辦大臣等の顯官に任せられ、咸豐三年(嘉永六年)より前後三年間に亘り、工費五十萬圓を投じ築造せるものは本庭園にして、純支那式に則り規模宏大技巧の精緻、優秀完美何れも專門技術家をして三歎せしむるものあり。殊に主要材料は總て支那より輸入せるものにして、就中建築物の蟻書なく、舊態依然たるは用材として樟楠木を使用せるか為なり。猶園內には蔚然として自然の生育を逞ふす稀に見る榕樹あり。其他斷橋落澗の風趣に致つては、文人墨客の等しく賞揚措からざる所にして、四季を通じ觀客絕ゆることなし。 二、石壁湖山圓通禪寺 枋寮の西南約一五丁、中坑山腹にあり。新店溪を隔てゝ臺北市街を俯瞰し、風光明眉にして近時杖を曳く者多し。本山の開基は新竹市の林氏塗と稱する尼僧にして、昭和二年二月十三日の開設たり。臺北近郊に於ける勝地たり得べし。 三、鶯歌石 鶯歌驛の北方約五丁の山腹大嵙崁溪に面して屹立せる一大巨岩なり。形狀甚だ鸚鵡に似たるを以て此名あり。訛して鶯歌石と稱し地名を之に因む。往時毒霧を吐き瘴氣常に天を蔽ひ、今を去る二百年前鄭成功、軍を率ひて此地に到るや瘴氣に觸れて倒るゝ者多く、怒りて大砲を放ち其嘴を礮斷せしに、忽ち迷霧霽れて瘴氣の患なきに至れりと言ひ傳ひらる。 四、鳶山 三峽庄三峽の北方約六丁大嵙崁溪の沿岸に屹立し鶯歌石と相對峙す。眺望絕佳、山紫水明の勝地たり。往年鄭成功の軍此處を通過するに當り鶯歌石の嘴部を切斷すると共に此山頂を砲擊したる為擊破の跡鳶に似たるを以て此名あり。 五、板橋無線送信所 板橋驛の南方に在りて臺北電信局所屬なり。四基の鐵塔は高さ三四三尺宛然天梯の如く巍然として天空を摩し、一大偉觀を呈す。昭和三年十月の開局に係り、東京局其他を對局として、一日數千通を送信しつゝあり、又同構內に十キロのラヂオ放送用鐵塔二基あり。 六、樹林酒工場 大正十一年七月臺灣酒類專賣令實施と共に樹林紅酒株式會社を買收擴張せるものにして、現在製造能力は臺灣消費紅酒の約五割を占め、尚此外米酒の造石高も相當に多し。最近全島に魁して、舊來の釀造法を全廢しアミロ式に改められたりといふ。 第二節 舊蹟 舊蹟として舉ぐ得るものは、領臺初當匪賊討伐に從事したる近衛師團の戰跡にして三峽、土城に在り。又鶯歌庄尖山には久邇大將宮殿下特命檢閱使として御來臺の際、同地に於て演習統監為されたる緣故地なるを以て何れも碑石ありて、永久に之を記念す。 一、三峽忠魂碑 三峽庄三峽(元三角湧と稱す)の西方市街と接續せる丘上に在り。眺望絕佳、遠く桃園附近の遠望は常に青霞を帶ふるが如き風致に富む。明治二十八年七月近衛師團に屬する。第三大隊長坊城(後章)少佐は三角湧、大嵙崁方面の敵を掃蕩し、七月十五日龍潭陂に於て山根(信成)枝隊に合する目的を以て大嵙崁溪に沿ふて前進す。今田大尉は一中隊を率ひ、大隊の右側衛となり溪の左岸を進み、坊城少佐は自ら第五、第六、第九中隊及工兵小隊を率ひ右岸を前進す。時に坊城大隊の糧食は河舟を以て運搬するに決し、第六中隊の第一小隊中、最も剛勇強壯なる者三五名を選拔し、特務曹長櫻井茂夫之を指揮し支那形河舟一八隻に米一一〇俵梅干三〇樽を分載し、七月十一日薄暮臺北を出發し、大嵙崁溪を溯行し翌十二日午後三角湧に到着一日分の糧食、米三七俵梅干若干を本隊に引渡し同地に假泊す。翌十三日拂曉大隊は大嵙崁に向て進發すれば、糧食隊は約二十間後午前六時纜を解き、溪を五、六丁溯行するや、俄然左岸堤防上に五、六十の匪賊現はれ我に對して小銃を亂射す。當時糧食隊の一部は舟中に在つて朝食の準備中の者あり、又一部は河中に入りて舟を押上つつありし際なりしが、直ちに之れに應射す。然る處更に右岸高地に優勢なる敵現はれ鼓を鳴しつゝ我に向つて急射す。惡戰苦闘刻々として我が兵の死傷者漸く相次ぐを看たる櫻井特務曹長は、急據隊を二分し自ら左岸の敵に當り、江橋軍曹の指揮する一隊を右岸の敵に當らしめ叱呼勵聲奮戰三時間に及びしも、敵は益々其の數を揩オ、敵彈飛來遂に櫻井特務曹長の胸部を貫き壯烈なる戰死を遂げしめたり。江橋軍曹之を知るや直ちに代つて全員を指揮し、悲憤押へ難きものありしも衆寡敵せす、萬策盡きたるを以て一方に血路を開くに如かすと為し、真先に立つて銃劍を振つて匪群の中央に突擊を敢行し、辛ふして之を突破し得たるも、生存する者僅かに九名而も內五名は重傷を負ひ健全なる者唯四名に過ぎず、されば軍曹は四名に命じ萬難を排し本隊に急報の重任を與ひ、他は悉く悲壯なる自刃を遂けたりと云ふ。武勳赫々たる諸士の忠勇義烈を永く後世に傳へむ為め、大正十二年十一月三峽庄有志竝在鄉軍人海山分會相協力し此の碑を建設し、同月二十五日壯嚴なる除幕式を舉行せり。碑の高さ一一尺士林產花崗石にして、題字及碑記の撰文揮毫は、時の臺灣軍司令官陸軍大將福田雅太郎閣下にして、工費僅かに九八二圓餘なりと雖勞力は之皆有志の提供に依れるものにして、每年七月十三日碑前に於て盛大なる祭典を官民合同舉行す。蓋し勇士殉難の地は大嵙崁溪の沿岸隆恩埔附近なるも、此地は水害を被る虞れあるを以て、各勇士奮戰熱血を以て染めたる戰蹟を一望の內に收むる高燥の地を選み、建立せるものにして軍隊、在鄉軍人其の他一般の參拜者年々多し。 二、三角湧表忠之碑 嗚呼鬼神泣壯烈者三角湧血戰之事蹟也臺灣鎮撫之時坊城支隊殉大嵙崁諸邑特務曹長櫻井茂夫等三十九名蹴舟運餉敵欲絕糧兩岸夾擊我舟應戰悉壹生存者僅四名就無不創痍矣實明治二十八年七月十三日也臺灣軍司令官陸軍大將福田雅太郎勒石以表其忠勇云 三角湧勇士歌 我れも諸君も日の本の、人と有る身に忘るべき、 慘擔極まれる、三角湧の三十士。 敵は四面を取り圍み、衆寡の勢如何にせん、 櫻井憐れ花散りて、江橋に渡す指揮の任。 前後三度の突貫に、僅か殘るは九名のみ、 痛手を閱し悠々と、別れの煙草を桙轤オつ。 大和男子の肉體は、蕃徒の刃に污さんや、 歸報は田中ョむぞと、云ひ捨て共に刺しちごう。 重き使命に石松は、忍び難きを忍び草、 葦段繁き沼に伏し、暮るを待つは八時半。 暗も陸路は行難に、里餘の水底くゝり拔け、 海山口に達せしは、古今稀なる績なり。 三、大安忠魂碑 本碑は土城庄大安寮碧潭に臨む丘上に在り。明治二十八年我近衛師團が澳底基隆港に上陸し臺北に向ひ進軍するや、敵兵は淡水及新竹方面に退却したるも尚は臺北以南には處々に出沒し、屢々我部隊に危害を加ひたり。就中大嵙崁溪右岸の山地即ち三角湧及大嵙崁附近不穩の情報は頻々として傳へられたるを以て、同年七月十五日同地の敵情偵察に派遣せられたる第二中隊第三小隊長陸軍騎兵特務曹長山本好道の率ゐる二十二騎の將校斥候は正午臺北を發し午後一時過ぎ板橋に到着、林本源邸內に少憩筆談を試み、暫くして土城を經て大安寮に入るや蔭蔽地にして道なき山麓又は家屋の周圍を迂回して辛ふして高地を下り開濶地に出て同村西方約六〇〇米突の地點に達せる時俄然前方森林中に一發の砲聲を聞くや、右方約三〇米突の河幅を有する大嵙崁溪の對岸及左方高地上より優勢なる敵の一齊射擊を受け續いて三方面より飛來する彈丸雨の如く、奮戰健闘大ひに努めたるも地形騎兵の活動に適せず、止むなく小隊は乘馬の儘大安寮部落に入り之に應戰す。多數をョめる敵は漸次我軍を包圍の形勢にあり、加之此の間既に多數の死傷を出せる小隊は岐路多くして道を失ふ等續出し、死生の巷を逸脫僅かに三名生還、漸く新莊郡下海山口に達し、該地守備たる近衛步兵第四聯隊に合するを得たるも、小隊長以下殘餘の十九騎は悉く生死不明となれり。當時近衛騎兵大隊の一中尉として從軍せられたる、前臺灣軍司令官田中國重大將閣下には、任を此地に就かせられ、後世此の追慕景仰すべき遺跡の煙滅に歸せんことを遺憾とし、勇士の赫々たる戰功と英名とを千古不朽に傳ふべく忠魂碑建設を圖らせられ、之に土城庄民、土城青年團、在鄉軍人海山分會等力を協せ、本碑建設の竣工を見たり。 忠魂碑は高さ地盤より十四尺五寸、碑臺下部方、八尺三寸上部方、五尺四寸高さ九尺にして碑及臺石共士林產硬石を使用し、工費一、〇〇〇圓を投したるものにして題字及碑文は何れも當時の臺灣軍司令官田中國重閣下の揮毫又は撰に係り、昭和三年三月十日工を起し、同年四月二十五日其の除幕式を舉行せり。爾來七月十五日を祭典日と定め實施し來りしが、軍部の希望と參拜者の便宜の為關係者協議の結果、昭和六年以降三峽忠魂碑祭典日と同日たる七月十三日を期し、每年壯嚴なる祭典を舉行せらる。 大安忠魂碑碑文 維時明治二十八年五月下旬ヨリ六月上旬ニ亘リ澳底及基隆港ニ上陸シタル我近衛師團カ臺北ニ向ヒ進軍スルヤ當時敵兵ハ淡水及新竹方面ニ退却シタルモ尚ホ臺北以南ニハ處々ニ出沒シ屢々我部隊ニ危害ヲ加ヘタリ就中大嵙崁河右岸ノ山地方面即チ三角湧及大嵙崁附近不隱ノ情報ハ頻々トシテ傳ヘラレ我カ近衛騎兵大隊ハ臺北ニ滯陣中不絕該方面ノ敵情偵察ニ從事シ時恰モ七月十五日三角湧附近ノ敵情偵察ニ派遣セラレタル第二中隊第三小隊長陸軍騎兵特務曹長山本好道ノ率ヰル二十二騎ノ將校斥候ハ板橋三角湧ノ間土城庄附近ニ於テ優勢ナル敵ニ遭遇シ奮戰健闘大ニ努メタルモ地形騎兵ノ活動ニ適セスシテ遂ヒニ悲慘ノ最後ヲ遂ケタルモノヽ如ク僅カニ三名生還セルノミニシテ小隊長以下殘餘ノ十九騎ハ悉ク生死不明トナレリ當時余ハ近衛騎兵大隊ノ一中尉トシテ從軍シ死生ヲ俱ニセル戰友ノ勇戰奮闘ノ狀ヲ具ニ生還者ヨリ傳聞シタルトキ肅然トシテ襟ヲ正シ暗淚ノ戎衣ヲ濡スヲ禁スル能ハサリキ爾來光陰ハ矢ノ如ク春風秋雨年ヲ閱スルコト實ニ三十餘星霜今軍司令官ノ職ヲ帶ヒテ任ヲ此地ニ就キ古戰場ヲ吊ヒ勇士ノ奮戰健闘セル光景ヲ想起シ俯仰低徊往時ヲ追懷シテ轉タ今昔ノ感ニ堪ヘス嗚呼大嵙崁河ハ碧水滔々トシテ盡クル處ナク沿岸連山亦巍然トシテ舊姿ヲ更メス勇士埋骨ノ跡ハ此ノ山河ト與ニ永久ニ朽チサルモ唯恨ムラクハ何等殉難ノ跡ヲ貽スモノナシ仍テ後世ニ此ノ追慕景仰スベキ遺跡ノ煙滅ニ歸センコトヲ遺憾トシ上司ニ具申シ今茲ニ一碑ヲ建設シテ勇士ノ赫々タル戰功ト英名トヲ千古不朽ニ傳フルコトゝナレリ。幸ヒニ在天ノ英靈ヲ慰スルノ一助トモナラハ豈獨リ余ノ本懷ノミナラン乎。 昭和三年三月 臺灣軍司令官 田中國重譔 四、久邇宮殿下遺蹟記念碑 昭和三年五月二十九日特命檢閱使として御來臺遊ばされたる久邇大將宮殿下演習統監の為め鶯歌庄尖山公學校に於て御休憩竝演習の講評を為されたる事蹟を永久に記念すべく、地方有志の發起に依り記念碑を建設せるものにして、昭和四年九月二十九日盛んなる除幕式を見たるものなり。 碑字並碑面礎石の文字左の如し。 邦彥王遺跡記念碑(碑字) 昭和四年八月建之 題字 臺灣總督 川村竹治書 碑文 昭和三年五月二十九日昧爽檢閱使陸軍大將久邇宮邦彥王親閱南北對抗演習于鶯歌之野既畢臨蒞尖山公學校咸曰 王 今上之外父 皇室之藩屏我鄉光榮蔑以加茲比者莊民胥謀捐金建碑以記盛事垂之後昆 第三節 附近登山案內 郡下に於ける山岳は臺北近傍なるを以て一日行程の登山に適するもの多し。先年臺灣山岳曾に於て三峽奥地たる五寮崙山に大衆登山を試みられてより、近時頓に登山家を揄チするに到れり。殊に其後同會に於て大衆登山を決行せられたる最奧地北插天山の舉あるや一層登山熱を煽り臺北を中心とするアマチユア登山家の普く知る處となり、郡內名だゝる山岳は殆ど踏破され盡され觀あるも尚幾多の末踏のものありて山岳禮讚家を待てり。 北插天山(タカイ山)一、七二九米 自三峽臺車一五哩徒步二里 カボ山 一、六〇一米 同上 ロツペイ山 一、五七五米 同上 チーロツク山 一、四二四米 同上 東眼山 一、五三六米 自三峽臺車一二哩徒步三里 如九嶺 九九一米 自溪一日行程 熊空山 九三八米 同上 獅頭山 八六六米 同上 雞軍山 七八四米 自三峽臺車八哩一日行程 五寮山 六四三米 同上 六寮崙山 六六九米 自溪一日行程 是等の山は何れも風光絕佳、頂上に達すれば眼界忽ち開けて一望涯なし、遠近の群峯は兒孫の如く腳下に集り、田野は廣く告Fの金巾を展べたるに異ならず。河流の蜿蜒として、此の間を走りて海に逝くは一條の銀綫に似たるを見む。而して此の時や天地の如何に廣大なるかを感し天然力の如何に壯偉なるかを覺ゆ。自然の如何に秀美なるかを知り同時にまた人事の如何に些少なるかを解し、人力の如何に微弱なるかを感じ、俗界の如何に不潔なるかを了るなり。而も下界に超然として無窮の天に對し建國の歷史も宗教の發達も多く源を山に發することを思ふとき、大聲叱呼大自然の征服を絕抖せずにはあらざるべし。尚諸山には奇石奇岩珍奇の植物に富むに到つてはリユツクサツクを背負へたる山登り、胴籃を肩にせる動植物採集者の等しく滿足なるを疑はす。又登山臺軍は何れも三井合名會社經營のものに依るものにして、宿泊の場合も概ね同會社に依ョし、愛嬌の煙に卷かれて草鞋を解くことゝなるべし。 |