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一七 板橋の今昔

今でこそ板橋といへば島都臺北の郊外で、無電の塔と共に人に知られた街であるが、二百年前までは人跡未到の地といはれた自然の原野で、僅かに淡水河畔に沿ふて蕃人81 が先住してゐたに過ぎなかった。臺北でさへ當時はバウチク茅屋が數軒あつたゞけで、今の新莊が交易場として僅かに街衢を形成してゐた位のものであつた。

一體に臺灣に於ける初期の開墾事業は先住民であつた蕃人の力を見逃すことは出來ない。當地方の開拓は林成祖82 や廖富椿83 等の努力に依つたとはいふものゝ蕃人の力も特に與つて力がある。即ち林成祖等は蕃人との物々交換によつて巨利を得ながら尚土地を奪ひ、反抗すれば或は討罰し或は懷柔して、開拓に協力させ遂に土城板橋を貫通する大安圳を開き、中和の永豐圳を造つたのである。この兩圳は其後修築擴張せられて、現在では板橋土城中和三街庄民五萬の糧道を養つてゐる。

「臺民の亂を喜ぶこと、燈をウ撲つ蛾の如し。」といふ言葉があるが、昔時の臺灣は空手で巨萬の富を摑まふとして移住して來た者達の戰場であり、掠奪場であつた。所謂分類械闘84 がこれで、島は戰國時代の縮圖を現出してゐた。真面目な開拓者即ち佃人達が平和な夢をむさぼることの出來た夜が果してイクバク幾何あつたであらう。幸ひ板橋はコソ他所程ひどくはなかった。そこへ萬華新莊方面から難を避けて漳州人が隊をなして流れ込んで來た。それが為に板橋は急激に發展して行つた。これは今から八十年ばかり前のことである。

丁度その頃林國芳も一族郎黨を引具して大溪から移住して來た。そして邸宅を構へ私兵をツノ募り、更に地方民を徵發して城壁を築造し戰備を整へた。かくて林家85 の財產の保有と擴充の工作は完全に出來上つた。これからが林家の全盛時代に入るのである。即ち善美な邸宅を造り、當時五拾萬圓もかゝつたといふ宏壯な支那式邸園を築き、一方では土地を擴げ財寶を積み官位も得て、名實共に臺灣第一の富豪になつた。

所が斯うなると金持喧嘩せずのたとへの如く分類械闘などない方がよい。そこで維讓維源兄弟は妹を泉州人莊正86 に嫁がせて政略結婚をさせ、これを利用して大觀書社87 を建てた。文學を介して漳泉兩族間の械闘を止めさせようと圖つたのである。コ川家康の故智に倣つたのでは無論ないのであるが、その着眼はボン凡でない。果して其の效果はあつたらしい。

世にいふ枋橋88美人の起源も林家の板橋移住の頃からである。豪族林本源を中心に私兵あり、邸宅邸園などの建造に支那各地から呼び寄せた數多の職人や土方もあり、又一方では城壁完成して移住者は日に多く、城內の平和は豐かな經濟力と相俟つてはなやかな遊女の出現を見るに至つた。其後林維源が全臺團練89大臣となつて、公然と兵を養ひ數多の團勇を指揮するやうになつた頃は林家の黃金時代でもあり、遊女の全盛時代でもあつたであらう。

この林家の黃金時代の末期にランシャウ濫觴してゐるものに四ベンタウ汴頭料理がある。この料理は四汴頭の孝子邱善90 の平和な家を元組とする。邱善の兄に邱港と邱屋がある。弟に邱長がある。四ベンタウ汴頭料理は四人兄弟の合作になつたものである。特徵とする點が三つある。第一に味がよいことである。これは林家のコツクに學んだからだ。第二は何百卓こしらへやうとも材料の見積にくるひがなく味に變りがないことである。これは祭典料理のやうな大量料理の請負に始まり、これによつて發達して來た為である。第三にきれいで安心して食べられることである。これはこの料理が兄弟の本業として發達したのではなく、人に依ョされるまゝに趣味と名聲の為に研究を重ねた上に、兄弟の立派な性格も與つて力がある。四汴頭料理が世に知られ始めたのは今から三十年ばかり前からのことで、北は基隆方面から南は新竹方面に及び、現在年に二千卓の依ョに應じてゐるといふ。

板橋として忘れられないものに兒玉大將91 の凱旋歡迎會がある。將軍が滿洲軍參謀長として露國に大勝し、臺灣總督として凱旋されたのは明治三十八年の暮のことで、全島の紳士によつて凱旋歡迎會が林本源邸園に於て開催されたのは十二月三十日であつた。この日兒玉總督は陸軍大將の軍服に勳章を輝かし、午前十時特別列車に搭乘、文武百官を隨へて威風堂々と臨場された。邸內の裝飾會場の設備等善美を盡し板橋空前の盛觀であつた一般民眾も亦將軍の威容に接しようと遠近から蝟集して來たので、街は時ならぬ賑ひ呈したといふ。


81 蕃人

平埔蕃である。今も尚子孫の一部は社後港子嘴に殘存してゐる。

82 林成祖

百九十年前擺接地方の開拓に蕃手した漳州人である。

83 廖富椿

主として板橋方面を開拓した漳州人である。

84 分類械闘

土地財寶の掠奪や勢力の扶殖に黨をつくつて爭つた私闘である

85 林本源

諸事本源を忘るる勿れといふ字句からとつた家號である。

林家畧系

平候 −國華―維讓

            −   維源

            −國芳

平候

幼時渡臺、新莊に於て家を興し大溪に於て富豪となつた。

國芳

大溪から板橋に移住して來た。

維源

邸園を完成した人。領臺當時支那に逃れて歸臺しなかつた。

86 莊正

泉州の人學者である。

87 大觀書社

大囤山觀音山を一眸の中に望む景勝の地にあつて文昌帝君を祠つてある。

漳泉兩族間の主な文人を招いて詩文の會を催して、兩族間の融合を圖つた。

現在板橋幼稚園がある。

88 枋橋の地名

昔時板橋の西門外に新莊に通する板の橋があつた。板は枋に通ずる。そこで枋橋といつた。大正九年制度

正と共に板橋と改稱された。

89 團練

現在の兵隊と壯丁團をごつちやにしたやうなものである。

90 邱善

今年五十八歲、大正十一年孝子として表彰された。

91 兒玉大將

名は源太郎、伯爵である。明治三十一年二月から三十九年五月まで臺灣總督であつた。

 

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