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名勝舊蹟

  • 林本源庭園 板橋街板橋に在り林本源(屋號)の建設にして林本源の創業始祖は漳州人林成祖にして今を距る二百年(我人皇第百十五代中御門天皇の享保十三年清朝の雍正六年)今の新莊に移住し來り所謂林公館を設け舊擺街堡(現在の板橋街、中和、土城、鶯歌各庄の地)に於て開墾に從事し當時蕃人と闘ひ或は之を從へ幾多の艱苦を經て今日の豐饒なる美田の源を成せり爾來約三四十年を歷て林平侯出て其子國芳清朝光緒年間新莊より居を板橋に移し其過房子たる維源臺灣懇務欽差、光錄太夫或は侍郎等の諸官に歷任し時の撫台布政協臺等と交際應酬し光緒十四年(我明治二十一年)より六年間に巨資を投じて庭園を築造し更に又三十萬金を費して之を擴張せるものにして支那式に則り規模宏大建築物は精巧を極め文人墨客をして賞揚措かさらしめ觀覽客絡繹として絕ゆることなし。

  • 鶯歌石 鶯歌庄鶯歌驛の北方約五町の山腹大嵙崁溪に面し屹立せる一大巨岩なり形狀鸚鵡に似たるを以て此名あり訛りて鶯歌石と稱し後又地名を之に因む往時毒霧を瘴氣常に天に蔽ひ今を去る二百年前鄭成功軍を卒ひて此に到るや瘴氣に觸れて倒るゝ者多く怒りて大砲を以て其嘴を礮斷せしに迷霧忽ち晴れて瘴氣の患なきに至れりと云ふ。

  • 鳶山 三峽庄三峽の北方約六町大嵙崁の沿岸山頂に屹立し鶯歌石と相對峙し眺望絕佳山紫水明の勝地たり往年鄭成功の軍此處を通過するに當り鶯歌石の嘴部を切斷すると共に此山頂を砲擊し擊破の跡岩石碎けて鳶に似たるを以て此名あり。
    三峽表忠碑 三峽庄三峽(元三角湧の改稱)の西方市街と接續せる丘上に在り明治二十八年七月十三日近衛師團に屬する坊城支隊三角湧附近を通過し新竹州大溪方面へ南下するに當り其糧食輸送の大任を帶び特務曹長櫻井茂夫以下三十九名河舟に依り大嵙崁溪を溯行し公館後、隆恩附近通過の際匪徒の包圍挾擊を受け惡戰苦闘生還者二名其他は悉く戰死を遂げたり其忠勇義烈を後世に傳へむ為め三峽庄有志竝在鄉軍人海山分會協力して大正十二年十一月此碑を建設せり。

  • 大安忠魂碑 土城庄大安寮碧潭に臨む丘上に在り、明治二十八年七月十五日近衛騎兵山本特務曹長以下二十二名の偵察隊は三角湧方面の敵狀偵察の為め正午臺北を發し午後一時板橋に來り林本源邸內に少憩の後土城を經て大安寮に到るや突然三方面より匪徒の挾擊を受け直ちに應戰せしも地勢甚だ不利にして乘馬隊の行動自由ならず加之敵は我に數十倍の優勢にして忽ち兵員の半を失ひたるを以て敵狀を本隊に報告すべく退却を命したるも途中に於て全部戰死し三名枋橋に歸り漸く海山口(現在の新莊街)の進衛步兵第四聯隊へ合するを得たり而して同隊より直ちに臺北本隊へ報告し、之を受けたるは聯隊副官田中騎兵中尉にして先の臺灣軍司令官將軍なりしと云ふ將軍は此忠烈を永遠に傳へ英靈を弔ふ為め臺灣軍司令部にて忠魂碑建設を計畫し一方土城庄民、土城青年會及在鄉軍人海山分會等に於ても此の企圖ありしか兩者相俟て昭和三年四月二十五日本碑を建設竣功せり。

  • 2 板橋街板橋驛の南方に在り四基の錢塔は高さ三百四十三尺と稱し巍然として天空を摩し一大偉觀を呈す昭和三年十月開局に東京局を對とし局日數千通を送信しつゝあり實に稀に見る大規模の施設なり。

  • 專賣局樹林酒工廠 大正十一年七月一日臺灣酒專賣令實施と同時に專賣局に於て買收したる元樹林紅酒株式會社の酒工場は漸次改次搨z擴張の結果現今は臺灣消費紅酒の五割以上を占むるに至れり昭和三年度の製造高は樽詰紅酒一三六〇五石、紅糟三六九二二貫、樽詰米酒二九八三五石、壜詰米酒四八四二七二本、壜詰老紅酒二三一九八五七本一日の製造力は紅酒一〇〇石、紅糟一六貫、米酒一四〇石、壜詰一六八四〇本、壜詰五〇石なり。

  • 故久邇宮殿下遺蹟記念碑 昭和三年五月二十九日特命檢閱使久邇大將宮殿下演習統監の為め鶯歌庄尖山へ御成遊ばされ尖山公學校に於て御休憩竝演習の御講評等を實施されたる遺蹟あるを以て之を永久に記念すべく地方有志の發起に依り記念碑を建設し昭和四年九月二十九日除幕式を舉行せり。

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