總敘 位置、地勢 東、東經百二十一度三二 南、北緯二十四度四七 西、同 百二十一度二一 北、同 二十五度〇二 本郡は臺北の西北部に位し東は文山郡に西南部一帶は新竹州に接し北は淡水河及新店溪を以て臺北市及新莊郡に界す面積二〇方里二一九二を有す內六方里三一は蕃地に屬す。 地勢は南より北に延び東西は狹く文山郡及大溪郡に接する地域は山岳重壘するも西北一帶は坦々たる沃野にして大嵙崁溪、三角湧溪は幾多の支流に岐れ此の中央を東北に向て貫流し郡下の大部分の平地を灌溉し、郡の北東部に於て相合して更に新店溪と合流し淡水河と為る。 山岳 河川 沿革 領臺前 臺北平野一帶は所々に鬱蒼たる原生森林と沼澤の地にして唯だ蕃人の占居に委したるが鄭成功の統督に依り其の南部の開發を實現したるも遂に北部に對して充分に其の霸を延ること能はざりき明の永曆三十七年(皇紀二三四三年)鄭氏亡び清國の領有に歸するや其翌清の康熙二十三年(皇紀二三四四年)臺南に臺灣府を置き臺灣諸羅、鳳山、の三縣を設けたるも尚北部は蕃人蟠居せり。閩人始めて臺北平野に來りて土蕃と交易の傍大加蚋堡(臺北市附近)を開墾し康熙四十八年(皇紀二三六九年)漸々部落を建設するに至れり雍正元年(皇紀二三八三年)臺灣府に淡水廳澎湖廳及彰化縣を攝ンするに當りて始めて臺北地方一帶は淡水廳(所在地現新竹)に屬せり當時枋橋地方は擺接社と稱し蕃社點在せり乾隆の初め(皇紀二三九六年)清國漳州府攀龍社兵頂西門外の林成祖(字茂春)來つて擺接社附近(枋橋、枋寮、土城)の開墾に著手し彼は漸次開墾を擴張するに伴ひ水利の必要に迫られ其後十餘年の歲月を費し大安寮より港子嘴莊に至る田一千餘甲を灌溉する為め大安陂圳を設け又南勢角枋寮莊の田百九十餘甲灌溉の為め永豊陂郡を築き斯して枋橋、枋寮、土城附近一帶の基礎を作りたり。樹林地方はもと海山莊と稱し最初陳瑜なるもの開墾に著手したるも完成するに至らず乾隆二十六年より同三十一年迄での間張必榮、張沛世等によつて永安陂、福安陂及び萬安陂郡等の水利事業を完成したり。又三峽地方は林成祖と相前後して渡來せる董日旭によつて開かれたりと傳ふ龜崙嶺山路の開通せられるに及んで海山口(新莊)に市街形成し乾隆十五年(皇紀二四一〇年)には八里坌の巡檢を此の地に移して臺北の首都となしたるが其後艋舺も市街を形成し漸次發展して臺江(臺南)鹿港と共に本島の三大港の一に數へらるるに至れり。 光緒元年(皇紀二五三五年)臺灣、臺北二府を置き同時に從來の淡水廳は臺北府に屬して淡水縣と改められ同十一年(皇紀二五四五年)臺灣を一省とし劉銘傳初代巡撫として本島に臨み臺北、臺灣、臺南の三府に分ち淡水縣は臺北府に屬せり光緒十二年(皇紀二五四六年)劉銘傳は理蕃機關として撫懇局を設くるに際し大嵙崁撫墾總局の下に三角湧分局を置き林維源(林本源の祖)をして總局の事務を總辨せしめたり。 領臺後 明治二十八年六月臺灣總督府の下に臺北縣を置かれ現今の海山郡區域は即ち其の區域に入れり明治三十年臺北縣下に辨務署を置かれ枋橋、枋寮、土城は新莊辨務署に三角湧、成福、鶯歌石、樹林は三角湧辨務署の管轄區域とし辨務署の區域を數區に分ち區に街庄長を置きたり。 明治三十四年地方官官制改正縣と共に辨務署を廢し廳を置くに當り枋橋、枋寮、土城は臺北廳に鶯歌石、樹林、三角湧、成福は桃園廳に屬し枋橋に臺北廳枋橋支廳を三角湧に桃園廳三角湧支廳を置き廳の管轄區域を數區に分ち區に區長を置きたり大正九年地方制度改正臺北州下に海山郡を置かれ元臺北廳下枋橋區を中和庄と土城區を土城庄と元桃園廳下三角湧區、成福區を一括して三峽庄と桃園廳下鶯歌區、樹林區を一括して鶯歌庄と改め庄に庄長を置く以上五庄を海山郡の區域とし更に昭和四年六月板橋庄を板橋街と改稱街長を置き今日に至る。 登錄地 昭和三年度末現在 戶口 昭和三年十二月末現在 官衙公署 行政區劃 行政機關
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