清水祖師の源流  

清水祖師は福建省安渓の守護神で、その生涯については、さまざまな説があります。

一説では、清水祖師は北宋の仁宗の時期に生まれ、本名は陳昭応で、福建省永春県の人であったといいます。幼い頃出家し、法名を普足としました。生前は村人のために橋を造り、雨請いをし霊験あらたかで、村人に推戴され、蓬莱山の清水巌に定住しました。その死後に、村人は塔を建て像を刻んで祀り、広恵慈済善和大師に封ぜられました。

もう一説では、清水祖師は南宋の開封の人で、文天祥に随行して挙兵し、宋のために元に抵抗した民族的英雄です。後に、明の太祖より「護国公」を追贈されました 、生前に隠居した福建省安渓の清水巌に、祠を建立して祀るように命じたため、安渓の人々から祖師公と尊称され、祠は「祖師廟」と呼ばれています。

三峡の祖師廟に祀られている清水祖師は、「麻章上人」とも呼ばれており、福建南部では多く「烏面祖師」と、台湾の民間では多く「祖師公」と呼ばれています。清水祖師の分身は、蓬莱大祖、顕応祖師、輝応祖師、普庵祖師または落鼻祖師と呼ばれています。

清の時代に台湾にやってきた先人達は、台湾、鳳山、嘉義、雲林、彰化、恒春などの県や澎湖庁、淡水庁で祖師廟を建立しました。北部では、 艋舺 、淡水、三峡の祖師廟が最も注目を集めています。


三峡祖師廟の沿革

三峡と鶯歌の2つの鎮は、以前はいずれも「海山庄」の管轄下におかれていましたが、移民による開発によって、町の規模が次第に大きくなり、三峡の祖師廟、鶯歌の陶磁はどちらも台湾の郷土文化の特色となりました。

康熙24年(1685年)、安渓出身の陳瑜が同郷の人々を率い、南靖厝 (現在の鶯歌鎮南靖里)に至って開墾し、乾隆20年(1749年→1755年あるいは乾隆14年とも)には、安渓出身の董日旭が大勢の同郷の人々を連れて三峡で荒地を耕しました。生活が次第に安定した後、乾隆34年(1769年)には三峡祖師廟が建立され、当時は「長福巌」と呼ばれました。長福巌祖師廟が落成した当初は、姓氏に基づき、信者は陳、李、劉、林、王、大雑姓、中庄雑姓の7つの班に分けられ、毎年廟の事務を当番し、旧暦1月6日の祖師爺生誕祭祀の祭を担当しました。


三峡祖師廟の3度の再建:

1回目の再建は道光13年(1833年)で、元々の廟が地震で壊れたため再建されました。

2回目の再建

2回目の再建は光緒25年(1899年)です。甲午戦争(日清戦争)で清軍が敗戦し、馬関条約(下関条約)で台湾が日本に割譲された際に、異民族による統治を望まない三峡の民衆が、祖師廟と興隆宮を抗日の大本営とし、事敗れたる後に、祖師廟は日本軍による報復のために焼かれ、光緒25年(1899年)になってようやく信者によって資金が集められ再建されました。

3回目の再建

3回目の再建は、1947年で、台湾の先代の画家、李梅樹(1902−1983年)が自ら執り行い、半生の歳月をかけて再建作業に取り組みました。廟の建築名工、彫刻家、剪黏芸師及び芸術家達の共同参与を広く募り、芸術専門学校の彫塑科の学生を参加させ、その特技を発揮させ、銅鋳の作品を完成しました。祖師廟整体の美を成し遂げただけでなく、「東洋の彫刻芸術の殿堂」とも称されています。


三峡、淡水、艋舺の祖師廟の比較

台湾開拓初期の安渓移民は、多くが淡水河、新店渓、大漢渓の流れに沿って溯り、水域に沿って開墾しました。淡水、艋舺及び三峡は最も主要な3つの拠点で、またそのために台湾北部で最も規模の大きな3つの祖師廟がそこに位置しています。そのうち三峡の「長福巌」は建立が最も早く、乾隆34年(1769年)に創建されました

三峡の祖師廟の3回目の再建の完成を1989年と位置づけると、3つの祖師廟は、それぞれ清代、日本占領期、戦後の3つの時期のスタイルに分けられます。

艋舺の祖師廟

の祖師廟は三門二殿の配置をもち、三川殿の屋上は、三川脊形式で、正脊と垂脊に剪黏の装飾があります。廟のタイル彫刻及び交趾焼には、清代の寺の装飾のスタイルがよく現れており、とりわけ観賞の価値があります。

淡水祖師廟

淡水の祖師廟の屋上の剪黏は、複雑かつ華麗で、廟の石彫、木彫は、いずれも精緻な彫刻の手法が採られており、日本占領期の寺の装飾の典型的なスタイルです。1976年、この廟では廂房(正房【母屋】の両わきに向かい合った建物【離れ】のこと)が拡張され、鐘鼓楼が増築され、近年の流行も取り入れられたため、廟の装飾で、時代のスタイルの変遷を理解することができます。

三峡祖師廟の配置は、五門三殿式ですが、後殿は現在まだ建築されていません。前殿の屋上は仮四垂脊で、正殿は重簷歇山式で、その上には華麗な剪黏の装飾があります。全廟の木彫、石彫は、すべて名工の手工芸であり、画家が供した画稿には、極めて芸術的価値があります。